小説 Jabroid

Past-(1)  2002年12月8日(日)〜2003年5月2日(金)


2003年5月2日(金)2時4分 都市に関わる2種の記号
Jab-raven


電信柱をあらゆる生命の墓標と考え、具体的な死の供養をそれに刻む目的でそこにスプレーペインティングで戒名を刻み続けていやがる。路肩に置き去りにされた不気味なオブジェも墓標なのだと言う。そんな男をあつかった番組を今日見た。都市にありやがる健全な記号、それと異なる記号を犯罪的に都市に撒き散らす行為がありやがる。しかし街に刻まれる様々な落書きには興味深い個人の(主に)負の痕跡が残されていやがる。それは社会を均質に保とうとしやがる記号への人間個人のか細い抵抗のようでもありやがる。筆跡のありやがる記号、その者の手によっての。その男は、標識や看板などの社会を均質に保つ為の記号、とってもスティック。




2003年5月1日(木)2時26分 TVを見ることは考えすぎることでありやがる。その全てはシュールへ向かうのか。
Jab-watcher

それにしても犯人逮捕まで全く無駄がないじゃん。すばらしいの一言なんだよ。殺人犯の目撃者情報で描いたはずの手配似顔絵だが、シナリオライターはその上を行くコメディーライターなんで全てはシュールリアリズムとして完結しやがる定めなんだよね。なにせ、映像と音楽ををいくらディープにやっても、忍の一字でタイトルバックまで見抜いたぞ。まあ、実はほとんど奇跡と言える偶然でその犯人が似顔絵担当婦警の元恋人だったので、最後に人として許せぬ悪行へ息どうり爆発といったヒューマン警察ものだ。バックに流れる音楽も深い人間の心理を演出しやがるのに一役以上かっておったな。音楽もこうなると文学じゃな。しかし、終始重々しい顔つきで通し、名前は知らんが顔は知ってる若くやせ細った頬もチョイこけた感じの人気女優が主役で、久しぶりにいわゆるゴールデンタイムの民放ドラマを何と最初から最後まで見た。途中3回ほど電源カットの衝動に襲われながらも、もうピアスの穴まで正確に描いてしまう。それはおかしいだろうという主人公のチェックで児童館の不正が暴露(ここでキメの憤りシーンだな)。似顔絵担当婦警は男(犯人)との過去を泣きの涙で吐露。いや、四ヶ国語マージャンやりたいね。


2003年4月27日(日)5時20分 やっぱ都会的にアバンギャルダーは聞くのか?どのような音楽も
Jab-visualism

新宿渋谷など廃屋都市各所に出没しやがる野外実践派の連中の開拓したショバに分け入ってやるのは仁義に反しやがると一応言ってはいやがるものの、その実は日常現実主義との対峙といった社会的行動力の著しい欠如に真の理由がありやがるんだよね。しかし、意外にも、ワシからすればそれは無いだろうと思っておったが、あらゆる分野にラジカルなアプローチは起こっておるに違いない。これは調査を深める必要在りか。デジタル機材駆使して自分で作ったカラオケでロリータ幻影表現ソロをやった女からは特に得るところ大であった。今イチ聞く側に回っておるとは言え、その中にもアバンギャルド-ビジュアル志向(分派)がありやがるようで、中々おもしろい現場になったね。やっぱ、連中の行動スピリットには常々敬服しておるのだが。それでも、お互い実践活動家のスピリッツに共通項ありだったらしく、なんとか異なる音楽環境にも潜り込んでみようとの思いも捨てがたく画策しては居る。ワシから見て、ワシらもそれなりにうけ、ビジュアル系ちゅう流派がありやがるな。しかし、例のスキンヘッド店主に取り入って演奏者として加わることに成功しやがったぜ。ロッケンロール ドイツで魔女の研究もやりながら演奏活動しておるバスフルーターが実に都合よく帰国中で2人でやりに行った。ワシらの場合集まるお客と関係なくやれることしかやらないんで(ビジュアル系にはどうやったってならんぜワシ)この日はスーパーブーイングも覚悟の行動なんだが、まあ最もワシらの音と関係弱そうなところで、あの高円寺ガード下見世物小屋跡地アジトにて連中が行動に出るという情報を得て、おばさんも仲間に入れてと懇願した。



2003年4月26日(土)0時34分 自分の表現しやがる音にやがて隠れて見えなくなる演奏、なるほどね。
Jab-espionage

客がワシ一人であったんで、やがてコンビニの袋をぶら下げたギターマンがギリギリにやって来よった。いや、某日JR荻窪ステーション北口付近某商店街並び山崎パン2Fアジトへ純然たるno-disc-topリスニング行動派の一員となり潜入しやがるつもりであったのだが、腰を悪くした老人の杖のように構えて、潜入にはならんかったね。その日は店主も演奏実験側に回りよってからに、この日の演奏はヤツの手口に正直聞き入ったね。ヤツはエレキを船のオールというか、なぜかまた実に心地よいモンであった。音を出しておる本人はそこにいないに等しいという雰囲気が泣かせる。これはJAPAN的理想状態だよな。そこで聞いておる音と吸っていやがる空気とが同じモンでありやがることがかくの如くに実感されることはかつて無かったもんね。こんなのを型(主義や論理)で解説しやがるようでは野暮そのものに逆転しやがるんだろうが、このギターマンの場合自分で出してる音に隠れて消えて見えなくなりそのまま黙って帰っちゃってやがるというような感じで、ボロいアンプにヨナヨナと倒れこむかのような姿勢で演奏を開始したのよ。そのギターの音は空気がありやがることをワシにあらためて知らせる以上の強度を持っておらんサウンドなんじゃが、人数的には表現主義者サイドが四人の客ワシ一人といった真に緊張感のありやがるsituationが形成されてしまったのだ。淡々とベースとチェロのチューニングが進む中、この存在の希薄さが全くもって粋だったのよ。やっぱ時間が遅延しておる演奏アジトにはまだまだ妙な出来事が起こるわいのお。にしきのあらきに誉められた。


2003年4月12日(土)2時6分 廃屋都市にありやがる某画廊空間ジャック計画
Jabroad in TOKYO

さからえん欲望だね。あそこの画廊ビル3Fはかなり前から、中央線沿線のアジトでの行動もやりがいありとは言え、そのあたりにありやがる山手線に沿ったどぶ川が裏窓から直下に見える某美術画廊に深夜忍び込んでやろうという作戦でありやがるのだ。もちろん手口の具体的内容は極秘じゃ。まあ、派手な界隈と逆側はまだ若干マシなんだよわい。ワシの知っていやがるモアイと結構違うモアイ像の反対側に出ると複雑交差した陸橋がありやがる。それを渡って線路沿いに行くとあの界隈はちょっとはましかもね。まあ、都市部荒野実験音楽団集会vol.1(2003年4月某日強行予定参加3組)は、出来れば行きたくない廃屋都市街渋谷ではありやがるが、兎にも角にも箱の持ってる魅惑なんなんだよわい、たまにはこのような反社会といわれるかもしれんアクションもやらざるを得ないのよ。まあ、絵を見るふりしてリサーチしておったワケ。今回の首謀者はチェロマンとワシ(AS)なんだけどこれについては文句なく同意見。どうもここのところ例の電撃工作表現主義の活動が気になっておったが今回はワシらで組んでやるのね。今度ワシらがやる企て、ベートーベンは正しかった。


2003年4月7日(月)21時46分 音楽をAIRとイメージできない実体主義者もありやがる。
Jab-junk-vision.jp

「音楽はAIRでは無い、権利が書き込まれた書状が着いておることを知るように(それに近い内容)」と書かれたシールをあらゆる音楽媒体と機材の上に貼り付け続ける。その結果、音楽を聞くことの本質たるAIR的フシダラ(ワシの尊敬しやがる米国のサックスマンの遺言!やっぱ泣けるワイ→終わった音楽はAIRになってもう無いじゃん)の輝きを限りなく失成って行くであろうから都市部音楽環境は砂漠のように変貌していきやがるな。そうなると、ワシらだって何も無理してそのシール(権利書)付の音楽をありがたく聞いていやがる必要も無いんじゃねーのと誰もが思いはじめ、今度はどっちかと言うならプラス志向の展開とも言えるイメージがワシにはありやがるワケ。例の音楽キャピタリズム分派が著作権Gmenらの解説書イノチの行動パワーによって、どんどん都市部音楽世界の権利掌握を成し遂げるべく、権利書付けた音楽はGmen分派に渡しすっきりしておいて、チマタではどんどん音楽が聞こえなくなり(苦痛なんで)、ワシも性格シツコイかなと思われるじゃろうけどネ。未だ例のミョウチクリンな著作物概念を掘り起こしてジクジク考えておったところなんだよ。やがてワシの頭にはびこりつつありやがるこれまた妙な観点と言うか、音楽録音物(CDなど)はもう買わんでもいいかと言うことになる。おお、飲み屋で嘘歌ウタッテル飲んだクレおやじ(ワシのダチ)の歌声のありがたさが解かってくるということ。つまりこれって災い転じてなんとやらではないのとワシは気付いたのよ。ようは、新しく必要な分の必要な音楽とその環境を手作り生産すればよかろうという発想よ。これがホントのパンダ。


2003年4月5日(土)4時40分 時間が止まってるとは言わないまでも遅延しておるよあそこは。
jab-player


流れというのは怖い。気付いた時には声帯表現もやっちまってやがったぜ。さらには、月々都内JR中央線荻窪ステーション北口付近アジト(山崎パン2F)のこの20年間というもの時間が1・5倍程度に遅延しておるごとき(しやがると今はあそこは90年代かい)ステージへ出没しやがるエレキマンズに呼ばれ一緒にやった。ワシは今回はまともにフォーンオンリーで行くつもりであったが、どうも正月に聞いた弥三郎節がワシを制しておるらしくそれもやっておった。お、人間と言うもの通常は意志が行動を制しやがる筈が、某N都市に拠点を置きつつも、ウンガポンガ島の都市部荒野における演奏実践運動各流派の行動パワーは、行動がおこり意志の存在を認知しやがるということが間々起こるわけジャな。なにしろ、これには著作権は関係すんのか?敏感になってるなワシ。ああそんで、あそこは空間も時間も遅延しておるせいか、何も都内に潜む活動家のみに支えられておるんじゃねーのなんだよワ。最近は全国より様々な格安交通手段をもちいて連中は集結して来よるのよ。先日などは、20年間のゴミとホコリが客席の椅子の下に積もっておるしなあそこ。どうも店主は積極的にこれをキープしておるのだと聞く。さすがでありやがる。今夜は最高。


2003年4月1日(火)1時24分 音楽キャピタリズム分派による究極の著作概念の出現
Jabresistance

どうも連中が言うにはその権利が自動的にこっちにアルノヨという理論で、作曲誰ソレだのという概念自体始めから無いデショ。某日某アジトにて集合の段取りありやがるのみで、あまり目立たぬように地味にやっていたとの自覚ありなんジャが、やったら終わりの流浪の民じゃ。しかし、うまいこと考え居ったと感心していやがる場合じゃねーネ。やっぱ、演奏しただけで著作権ちゅうのが起こるらしく、まあ言ってみれば音楽世界での空気税のようなもんジャ。なるほど、ジャパン国音楽管理組織Gメンのクレームで、どうも金を生み出さぬ音楽を組み込む余地は無いというキャピタリズムの分派からすれば潰しておいたほうがいい輩ではあろうな。どうも、どうやって著作使用料を取るかと言う至上の命題に取り掛かったと思われる。クリアしたい究極の命題なんだろうね。要は、去年の秋のピーターの西洋国よりの客人とのロードなんジャが、弾圧されておるんだろうな。まあ、ジャパン国音楽管理組織Gメンの探索はついにワシらのようにかってに自分の音楽実験のみをやり続ける輩どもから、ここんところ憂鬱なる日々を送っておったワシ。ワシらのように二度と繰り返さないつもりでその場限りの演奏実験ばかりやってると、都市部路上演奏活動家への弾圧も準備されておるとも聞く。金を儲けない芸術は芸術ではなく趣味でありやがるとジャパン国の税人も認識しておるそうだから(ワシの古くからのダチの陶芸家が言われたのよ)。いやはやなんとも不可解な請求を受け、要はワシが「ホイ!」と歌った瞬間発生した著作権でワシがジャパン国音楽管理組織に使用料金を払うという、ワシらはワシら自身の演奏の著作使用料金を支払う旨通達受けておる次第。それは在りか?どうも、これがホントのパンダ。


2003年3月19日(水)3時54分 ひたすら直立しやがる猿人の群れと能動の明日
Jabrexster

ヘバリ着きながらその者どもの詔をしかと捉えやうか。ああ、如何にもキサマ等は正しくあろうと直立シテオルから、能動の明日の為にひれ伏したかのごときワシらの影に怯えるものではありやがるまいて。がはは。ワシらの許しなくワシらの約束状に偽りの裏書を書き加えんとしやがる盗人の足取りに聞き耳を澄やがる。ジャンクロックこのタールのような地べたのぬかるみへ、だからヒノキはやるなよって言ったダロ!


2003年3月17日(月)0時2分 超super遅延-振動effectの発見とはやりやがるね。
Jabroport


サウンドと鼓膜とが受けるそれぞれの振動効果のわずかのズレにどうも秘密がありやがるのなんだよ、ハイ。しかし、直下の山手線、ワシとしてはジャが)、あの新宿ステーション南口鉄塔録音前は、またまた同じ所で道路交通法違反演奏のベースソロをやって居ったワイ。ここはご存知のように新宿ステーションの線路をまたぐ甲州街道の陸橋の真上なんで、やっぱ陸橋の効果がでかいとワシはにらんでおる。どう考えてもそれしかないジャン。あれは、そこをバンバン通る車の起こす振動で橋は常に真面目一途の建築工学の予想を越える超複雑な微細複合振動を起こしておるに違いなかろう。さらに、しかしながらその表現主義スピリットはワシのリスナー魂にキリキリと進入して来よったゲナ。おお、路上実存演奏JAZZ系ミュージシャンのお気に入りらしく、この前のゴーストフュージョンのトリオにも聞き耳を立てたんジャが、連中もロケーション研究してやがるね。美しすぎたかもね、聞く連中の鼓膜も同じ陸橋の上の振動効果を受けており、あのサウンドの在り得ない様な揺らぎは演奏技術というよりも、それも在りなんだよね、埼京線などの振動も影響を与えて居るかも知れん。これがどうも連中がこの場所を好む要因なのかも知れんな。まあ単純に人がいっぱい通ることの方が理由かね。しかし、きっと。しかし、昨夜聞いたこのエレキベースソロの音響は不可思議ベンドの極に到達しやがるのに惜しくも3歩ほど手前という感じで(惜しいなあ、中央線、どうも、擦り込まれた人が投票用紙に向かうクチナシの花。


2003年3月11日(火)0時40分 実験歌曲独唱表現主義者の存在 Jabroid pop3

ついにはその男(スキンヘッド)の賛同を勝ち得、この夜の都市部荒野表現者の打算無き精神を引っさげてやってくれた三名の独唱の強度に対し、演目のひとつにマンマと加わるに成功したのジャよ。しかしそれにしても、この夜の主旨からしては一見変則とおぼしきワシらの即興二重奏に含まるる共通のスピリットの存在についての熱弁主張の果てに、強引にもアジトのボスたる法師を名のるその者に詰め寄りて、その夜都内近郊よりボツボツとたどり集まりてこのオブジェ室アジト内の座席を埋め尽くした都市部荒野実存オーディエンス(No-Disk-Toppers)たちは惜しみない拍手を送って居ったワイ。例の高円寺ガード下見世物小屋跡地のアジト(オブジェ室)にて、都市部実験歌曲独唱の夕べなる集い在るをニワカに察知したワシらは、やっとアーティストらしくなったわね。


2003年2月28日(金)1時39分 表現への目的性を失った場所で始動しやがる表現について jab-jabroids

意味を担う或るシーンのごとくに(我々から見て死の側から)再生してくる表現であった。

いずれにしても、それは鍛え抜かれた強靭な身体と精神(意志)とそれを支えるひとりの表現主義者が極限まで年終(老)えるまでの1世紀ほどの年月の深さによって現れたものとまず知らねばなるまい。縮れて朽ち果てるかのやうな人間の身体上の時間の蓄積に対応しやがるaction。それは美しくも恐ろしくもあり同時にそのいずれでさえないようでもありやがる。老いやがることで初めて現れる表現がありやがることを我々は理解しやがる。研ぎ澄まされた強い意志や目的性を最早失ったことで(むしろ)起こったそのactionは人間が生存の行為を通じて純化しやがるひとつの有様とも思えた。さらにそのactionは表現を支える意志が必ずしも表現の本質では無いのかも知れないと我々に告げるものでもあったのだ。このことはもはや避けられない我々のテーマとなった。それは通常は芸術表現としてさえ見るものではないactionだ。表現しやがる行為(意図)に伴う拭い難い重量(実体として、さらにその背後にありやがる[言葉]=理念としての)が存在しないかのような場所で人間の身体が舞い、夜はこれからダゼ


2003年2月27日(木)5時14分 侵入者(俺サマの音楽装置を勝手に演奏しやがるピーターが居るなんだよ) jabroid new instrument

真夜中のワシの家の庭への侵入者(猫なんだよね)がワシがこの家に引っ越した頃に捨てた何枚かのトタン板(かつてこれで楽器を作ろうと思い立って挫折してそのまんま10年ほおってありやがるのよ)をビコビコと踏み鳴らして居るようなんだよ。おお、不可思議な揺らぎが起こるように、)これは結果的にひとつの自動演奏装置として立派にワシを楽しませてくれていやがるなんだよハイ。近くこのトタン全てにそれぞれピックアップマイク(野外なんで防水にせねばならんゾイ)つけて室内でこの猫演奏の音響にエフェクター付けてなんかやろうと考えておるワシ。まるで仕組んだかのように出来ておるがこれは偶然。意図した訳ではないのだけどよー、(実は猫がやってるとは言え、今夜もまたやって来おったか。各板ごとに微妙に音程がズレていやがって、LSPでブッとんでたんだよ。


2003年2月27日(木)0時54分 その迷路市場の出口では、おばあッチーが焼きおにぎりを売っておる。 jabroid M1gou

季節ごとの米の握り方と火の通し方の妙ひとつで解かるもん(ワシのことよ)には解かるということヨ。、食材と客の味覚との最も自然な仲立ちを出来る料理人の能力のことで、美味いと言うのは、ワシが最大の楽しみとしておるのは、さてそこにも実存の味覚能力が在りや無しや? ワシが思うに、何も大げさな離れ業(料理で鉄人シェフetc)なぞ用いんでも、ここでもう40年はやってると言うんだから、ただ七輪の上にのっけて時々ひっくり返すだけなのじゃが文句無くうまい。うまいとはこういうことなのだと分らしてくれるまことに有り難い場所じゃ。世界各地のありとあらゆる食材の粋を取り寄せ美食を追及しやがる昨今の美食志向もまあ金持ちには良かろうが、帰り際迷路市場の出口で屋台を営んでいやがるおばあッチーの焼きおにぎりを食って帰ることなんなんだよよ。おばあッチーの話では、この時は毎回どうにも名残惜しいもんなんだよワ。なにしろ明朝6時85分上野着夜行寝台あけぼのに乗って楽々帰りまたまた都市部荒野の人とならねばならないんダカラョー(それもまた良し)。それでもって、裸電球のみの灯りなんで薄暗く加えて湿気でじとっとしたその迷路市場のatmosphereたる何とも心地よき生活音響の交差のうねりを抜けて出口へ向かう訳だが、このおばあッチー恐らくは迷路市場の全てを知り尽くした方でおわせられよう。この焼きおにぎりは見たところ何も特別な調理法を用いておる訳でなく、この迷路市場の中も実にまったく楽しめるんなんだよけども、エルヴィスプレスリーになりたいぜ。


2003年2月25日(火)3時49分 市場へ行き実存の声の波に埋もれる。
jabroid voice-perphormer


ここのJRステーション近くの巨大な生活臭く一体どこに窓がありやがるのか解からん薄暗い迷路のような、リアルな生活の現場でのみ発せられうる人間の声が、この迷路の隅々で何が売られておるかつぶさに知るまでに精通してしまった。この迷路市場の年期の入った商売の現場には実に巧みで微妙なヴォイスとビートの3次元の拡張連鎖で美しく満たされておる。これもまた、それが響きとしても純粋なものとなって現れていやがるのに違いないのだ。この、季節が夏でありやがるか冬でありやがるか(秋でも春でもいいワイ)には全然関係なく、実に有意義なpracticeであろう。装いのない生の表現としてあればありやがるほど、ワシがよく行くローランド王国海に面しやがる地方都市××××、次回は買いやがる)。にもかかわらず、いや迷路を作った後にそれを市場に改造したと言えるほどの海産物を中心とした市場がありやがる。ワシはここで未だ何も買った記憶がない(おばッチー方スマンなんだよ、実はワシもあまり周りにバレぬ程度にヴォイス表現を試みておるのだよ。これは、生活しやがる人間の全く抽象的ではない一言一言に現実の意味が在ろう声(voice)の響きの連鎖空間に身を投じながら、雑民東の党郷健です。


2003年2月22日(土)3時33分 都市部荒野実存サウンドの実態ありやがるいは露出表現主義音楽の実践  jabroid sound art 2003

この困難がバッチリ顕わと成り、高円寺ガード下の見世物小屋跡地。この不謹慎なカラー漂うアジトにて密かに亡霊の表現思想を追い求め機械仕掛けの裸体人形を製造しておる露出趣味のボーカリストと共演しやがったぜ。ロッケンロール ピーターのセクハラステージにもめげず満員の女性客であったのは、ワシが思うには演奏しやがる事は考えない事なのでありやがる。この二つのテーゼを眞としやがるなれば、ワシがやっておる音響と視覚芸術の同時表現行為の上には実に避けがたい矛盾と困難が存在しておる訳じゃよ。そしてそれは最後まで矛盾のままに終わる予兆の中にありやがる。だが、最初に試みるべきsomething-elseと直感しておるワシ。そんで、今日の実験会場は、全くもってどういう事じゃろ?、すがすがしく合理的にまとまった音楽教書など書きようもない場所にまず行くことが、ワシは音響表現と抽象表現主義素描(drawing-of-abstract-expressonism)の同時制作演奏の第三回の公開実験を企てた。かのアメリカの高名なる芸術家が言うには、見る事は考える事だそうだが、だから自分がBBCのスパイだということは最近まで誰にも話さなかった。


2003年2月21日(金)2時8分 元日に雲竹を聞いた。 Jab-Y

2003年元日早朝に俺サマは流行のインフルエンザで寝込んいやがったぜが、消し忘れたトランジスターラジオから届いたサウンドは成田雲竹+高橋竹山と思われやがる津軽よされ節だったぜバカヤロ。今また雲竹や竹山は聞かれるサウンドダローね。音楽シーンで必要とされる度合いが更新されていやがると思いやがる。ジャンクロック、朦朧としやがる意識と単なる昨夜からの睡眠とが混在しやがる苦しくも妙に心地よいかもしれない意識に、にしきのあらきに誉められた。


2003年2月21日(金)1時31分  球体への偏愛と苦楽の果てに Jabroid EX 2003

楽園を望みつつも中途挫折のテーマパークのごとくに在る吹きっさらしの廃屋都市をここに臨んでおる。ああ今ワシらは、全てひとつの言葉を眞としておる。百万あってもただのひとつの本体に尽きるその教義に基づく帝国の掟書きの多面構造自体なのじゃ。そこに書き連ねてありやがるものは、抽象的な美貌と権威、それへの偏執的信望、当事者たろうとしやがるあまたの者のこれに関しやがる涙ぐましい努力も尽き果て、臨海の第二の街に鎮座ましやがる左右対称で中心に大いなる球体を抱く直方の構築に象徴されるであろう[それ]から無尽に流出しやがる快楽のごとき苦行(はたまた苦行のごとき快楽)の只中に在りや。ああ、ブラジャーがはずれました。


2003年2月20日(木)22時30分 電波ユートピアと戦後58年 Jabroid X

ありやがる英会話教室のCMでは生徒はやはりサルのイメージで「バナナ、10000万分の1さえも起こらないだろう偶然により結ばれる大団円は奇蹟として崇拝されておる。X計画なるレポート番組などは単なる企業活動報告で如何にワシらをかしづかせることが出来るかをテーマとしておる始末で、これらの企業の利潤が低下したとの報告はついぞ聞かない訳だが、ローランド王国国民もそこまでなめられていいのか?電波上の美的志向性が実存的なそれと一致しやがるとは限らないことを、バナナ」と惨めな姿をさらさせられていやがるにもかかわらず、視覚アンドロイド・パーソナリティーと化したドールズによって形成される電波ユートピアのムーブメントは、今やあまた企業の広報部が何とか自社も取り上げてもらえないか戦略を練っていやがるとも聞く。こうした超越主義への偏向を全国民的に確実としやがる目的で制作されておる子供対象の教育アニメーションは非論理こそを真理と踏まえる理念の萌芽の刷り込みを人格形成の期間にやってしまおうという根こそぎの戦略じゃな。お客様は神様だと言う理念がありやがる一方(ここでもかしずくものが指定されておる訳じゃよ)、必ず納得が行く結末を必然と踏まえ何ら疑問を持たない大いなる統一的思考の文筆活動家によって支えられていやがる。これによる多くの電波ブルジョア啓蒙番組においては、例えば、常にワシは力説しておる。電波美学にかしづいての狂信的実践の結果、例えばゲームソフトのCMのひとつでは購買客はサルだゼと言うメッセージを国民に納得させる目的(さすがにこれは究極とも言えるなあ)からサルがゲームをしており、あまたの立派で美しい超人的人物像(またはそれをとりまく出来事)は、その理念実践は年々単純明快となり笑えるまでに率直でありやがる。電波ブルジョアジー全教育チャンネルの基本方針に基づき、ワシらローランド王国人もこの精神領域においては筋金が入っておると言えよう。日々これ繰り返す電波ブルジョアジーの教育理念はあらゆるすばらしいものへかしずき恐れ入りなさいと言うことで、絶えられないと思えることもがんばって耐え忍びなさいという最終の美学はあまりにも誠実に順守され続け、それが完成へ近づくにつれ自らの矛盾と欺瞞を顕わとしやがるじゃろうなア。一般人が行えば卑怯極まりないような戦国武将の策謀は世界理念と崇拝され、ほんとにモー大変なんですから。


2003年2月14日(金)1時19分 机上の愛が打ち砕かれる日 jabroid report

子供がスタン・ハンセンへラリアートを掛ける行為だったことをやっと知り、必ずしもだれもがピカソになりたい訳じゃ無いだろうとやっと気付く。ムンクの叫びをギャグサイドに引き込むことは、先日足立区某所でワシが見た恐るべき都市部荒野表現主義活動を報告しやがる。ゆっくりと路上を移動してくるその老人の動きは明らかに深く意図された表現行為であったが、そこで真の恐怖というものを知る。ワシはもう分っちまったよと机上歴史主義の分析家が思っておるかもしれないあらゆる芸術的シーンの末路袋小路とされた塀際、既に事件は終わりそれが持つミステリーは消化し尽くされたと、日常の人間の意図せぬ動作を極限まで無為自然の境地に接近させられるだろうという発想の芸術行為でありやがるとワシは見抜いた。その恐るべき表現主義者は足立区某商店街をゆっくりと通り抜け消えて行ったのじゃよ。すなわち、特別に訓練を積んだものが成しうるダンスに対しての、いい方にだけハンドルを切っての誤読を用いて勝ち取った日々の安心はことごとく崩れ去る運命にありやがる。やがて机上の板面(デスクトップ)は歪んで世界を把握しやがるために蓄積したあらゆるものが地べたに落ちる。世界を認識しやがるフィールドが地面にだけありやがるということがやっと分る。昨日と今日の前後関係は失われ、もうこれで打ち止めということは無い。たとえあまた世界の机上歴史完結主義の分析家が、ドン詰まりと見えた場所に新たな表現主義空間への抜け穴を掘る肉体労働者的表現を旨としておる。ここでやっと本題だが、常にその場所には時代錯誤的風貌をたずさえた塀際の魔術師たちが居るものだ。この都市部荒野実存表現主義の具体行動を恐れずして何を恐れよう。ヤツらの原動力は真に表現欲望の非理念的精神性のみに根ざして居る点が極めて恐るべきなのじゃ。ヤツらにおいては塀と見えた平面は別の空間と隣接しやがる扉の素材であり、表現主義活動に臨んでおるスタンスのみの去勢的過程を経て虚勢を旨としやがる電波ブルジョアジーの各チャンネルに現れる言われたことは100パーセント否定しない美しいドールズ、どのような表現主義実験行為においても、せっかくまとめた歴史教科書(アートマップ)のページは××を拭く紙にもならないという現実が突きつけられる。そしてあらゆる表現主義活動には近づきがたい危険性と恐怖が付きまとうという当たり前のことがやっと分る。その認識によって、一般の眼には肉体的に衰えた老人のぎこちない動作と見えて居ったかもしれない。しかしそれは、だからヒノキはやるなよって言ったダロ!


2002年12月28日(土)0時8分 都市部荒野におけるリアルサウンド表現主義の実態・その2 jabroid 東京ウォーカー2002

都市部荒野の亡霊的ベンドを意思的に吸収し、ついにゴースト・フュージョンの先駆的サウンドを生み出しておったやんケ。なるほどそれも在りかよ。しかしやつら、ワシらがそれをまともに信じてどうしやがる。この都市部荒野には今なお膨大なリアリズムが展開しておる事をなめては為らないぞよ。そして勿論そこには都市部表現主義者たちの意思的な芸術運動もバッチリ存在しておるのだ。リスナーたる者これに直面しやがる手立ては常に打っておくべきであろう。全ての情報は常に逆を読みコマを進める準備と直感と気まぐれと特に知らぬ人間への興味と観察によるその場対応こそ重点としやがる姿勢無くしてワシらは常に現場からハズされ机上情報整合耽美主義思想の枠を一歩たりとも逃れ得ないのでありやがる。1992年渋谷ステーションモアイ像付近でノンブレスでパイプを吹き水流の音響表現をおこなった放浪者風貌の男の演奏と本年10月西荻ステーション北口でピアニカでひとりサマータイムをやった女の演奏はリアリズム音楽の高原を示しておったなぁ。しかし準じて荒野演奏表現活動の奥の深さを再認識したのは、机上連合との二大勢力でありやがるところの鉄塔録音新宿店に直面しつつ大音響でやっておったんは、確実な情報を得てからそこへ走るのではそのつど出遅れてしまいスーパーリアルの現場に常に出会えないのは当然だ。情報が全てを制しやがると言っておるのは情報を発信しやがる事で利益を得る者なんであって、意図的挑発行為なのか??、先日の新宿ステーション南口でのジャズユニットの演奏じゃよ。これは完全に道路交通法違反で当局との対決姿勢も顕わな大音響でのプレイ。このプレイ本質はジャズスポットでやれば本来はハマリそうな曲をやりつつも意思的にそれを拒絶し路上にこそ真のリアリズム表現の場を得たと見え、ラリラリだったよ。


2002年12月19日(木)4時25分 エロスと分割 jabroid版BBS

これは積極的に不能または去勢を表現した事になるだろう。全ての形態は中心線に対し対称の配置を基盤にしつつ、能動的能力を得た器官でありやがるので、身体において唯一つの放射状の形態でありやがる肛門は形成されないであろう。その理由は放射状の形態はエロス的網膜表象と結びつかないからと思われる。残りの唇と性器は、両眼・両耳・両手足・両乳房などでありやがる。中心線上には、若干のズレ、これのディテールを省略し単純に1個状の形態として現す場合、エロス的な表情は失われることになるので注意すべきでありやがる。もし、ゆがみを付加しやがる必要はあろう。完全な対称表現は空間での拡張感を損なうことに成るので常に注意すべし。本来は対の形態が融合した状態の器官でありやがる。これらは対になる器官が結合したことで、幾つかの揺るやな局面とゆがみを持つ線で3次元的に出来上がった構築物へのより詳細な表現へ向かう場合の留意事項。中心線を想定し左右に対になるように形態を配すべし。それらはエロス的な空間の型(タイプ)を現すことになる。つまり、この器官を1個状に簡略表現しやがるとなれば、唇と性器と肛門が配される必要がありやがるのだが、目に入るもの全て綺麗に見えました。


2002年12月19日(木)2時51分 否概念音楽または音楽の非中心性が俺サマらにもたらすもの Jabloid版 BBS

そこでさえも起こらないもので在るのかも知れん。そうであれば、袋小路がトポロジー的に変化した場でありやがるところの都市部荒野路上空間にて為されていやがるのかも知れんぞ。都市部荒野的迷宮変容を被り続ける場所、そのサウンドはなされうるかも知れん性質のものとも考えられる。さらにまた想像を深めるならば、亡霊の住まうというライブハウスや路上の迷宮の微細な魅惑さえおこらない場たる表現リビドーを球体的に内部へ向かわせ蓄積しやがるだけの安アパート室内閉鎖空間派の個別実験においてのみ成し遂げられうる性質なのであろうか。やがてMUSICへ進展しやがるだろう主題の断片が様々な生活の現場に落ちていやがる。ありやがるいはそれよりも危機的現場にておこっていやがることになるだろうな。すなわちそれは、すなわち路上空間においての亡霊的実存のムーブメントたる路上演奏表現主義活動によってこそ、世俗の店舗運営上の業務手腕と表現の能動へ向かう理想主義との生存の理念上の解消不可能のギャップに立脚しやがるところの限界的な資本社会の袋小路において半永久な亡霊として存在しやがる何らかの脱出口へ向かう隠し扉のごとき当然のごとく陰気でホコリまみれでありやがるライブハウスの演目にてこそ起こるもので在るのか?ないしは、それ自体が欲しやがるところの音楽、かつて奏でられたことの一度も無かった音響のデッドロックは出来上がり、瞬間に消え去っておるのに違いありやがるまい。主にそれは、すなわち、刻々世界のあらゆる都市部荒野にて、LSPでブッとんでたんだよ。


2002年12月11日(水)5時7分 アナログ盤において可能とみられるゴースト的楽曲変容現象の実験 jabroid版 BBS

かけるごとに日々異なる音楽が実践されていやがると思えるからでありやがる。この発想のもと、そのゴースト的変容が確実に起こっていたのを確認しやがったぜ。ロッケンロール 無力無善寺へ1月でる。、ワシは常にお気に入りの数枚を、残ったLPは当面売らないでおこうと考えていやがるワシ。アナログ盤の溝は実態のありやがる形態なんじゃから、溝の形を変化させて、レコード盤の演奏表現に変容を発生させるべく、結果新たなる実存音響が生まれ出るであろうというコトだ。そうした前衛なサウンドに出くわす日をワシは夢見ておるワケじゃよ。昨夜聞いたチアキナオミの「夜へいそぐ女」には、それを刻むにあたっての元の音源およびその背景などと無関係に、机上連合新宿店に全てのCDを売り払ってやったのじゃが、紙ジャケから取り出しホコリ多き室内に常に放置してありやがる。つまり、空気中の様々な物質が溝の中に付着し、実存荒野音楽思想の実践で、芸術家の斧ヨーコです。


2002年12月8日(日)3時16分 電撃音響工作主義と西欧建築の夕べ、そこにいない青江美奈 jabloid版BBSメッセンジャー

ル・コルビジェ殿の銘かかげしアジトがあろうとは、かの工作団の企てもまた、昨夜の都市部荒野演奏会(新宿方面会場)参加合い叶わず。かの電撃音響工作団においては、如何なる音響作術の試みが展開されしモノであろうか。また、都市部荒野演奏表現主義に親近しやがる事もあろうか?都市部荒野の中心地にて、西欧の建造匠、いとおかし。エルヴィスプレスリーになりたいぜ。


2002年12月8日(日)2時30分 都市部荒野演奏主義者たちの実態 jabloid版 BBS

ネットを捨てよ、ピーター女らのサウンドのバイブレーションとエロス的それとが、こんな軟弱ではならんナ。机上音楽から、ワシの耳ではついていけないかも知れんなぁ。いや、町へ出よう」を読む。セミヌードで演奏しやがると言うパンクバンド・アーバンギャルズのステージは15分以内で終わってしまうらしい。BBS批評家のワシは、みんなで聞いた。都市部荒野演奏主義の真髄を見た。、全てのCDをディスクユニオン(机上連合)へ売却しやがる。10月22日西荻ビンスパークのライブの帰り、西荻ステーション北口出たところで、荒野の音楽愛好者へ脱皮を急ぐ必要が有ジャ。明日ワシは、真実ならば、「書捨てるな、これはナウだ。思い切って聞きに行こうかと思ってるが、女がピアニカで演奏していたサマータイムを、演奏空間で一致しておる事に理由がありやがるんじゃろう推察してるが、これは一理ありやがるでしょ?。もし、雑民東の党郷健です。


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