J
a
broid

-Reports from Erratic--


Past-(2) 2003年5月6日(火)〜2004年11月15日(月)


2004年11月15日(月)0時59分 無限増殖音響派の動向
MP三美神

消えて無くなることが前提の断片、そのことでそいつらは無限になりやがる。明確な形は粉のように食い壊されて行きやがるが、それは生産の過程と思えば有意義とも言えるのでありやがる。いくつもの目的地に集合しなさい。



2004年11月2日(火)21時39分 JAZZ
ギリシャの風

これもいいんだがオイラとしては、どうもそのチャラチャラしたびみょーな何音かありやがるのを無しにしてやってもいいんじゃねーかと提案しやがったぜ、ロッケンロール。 しかしやはりそれだとJAZZにならないらしいんだよな。どうもギリシャ諸島の節使いが伝わったナニらしい。高度だ。まぁ、やるとなったら結構難しいことになるのでノリはいいとして節の方は我諸島オハコのミニマル路線(Em一発節)でいいでしょ。スミスに聞かせたらそれで十分JAZZじゃねぇーの?と言ってるし。そんで、そのフォークギター3コードの分かりいい音楽が発端なんで、あらためてこっちのネタを書けばいいわけだ罠。

ハイセンスのJAZZだというんで聞いていやがると、エルヴィスプレスリーになりかかったのよ。



2004年11月2日(火)21時20分 サウンドパースペクティブ
チョーク攻撃の末路

どうも死者を送る巫女音楽だったが、真夏に暑さでうとうと寝転がってそれを聞いていたオレはすべてを理解しやがったぜ。ちょういとこれは神聖なるサウンドに対して無礼かと思いきや実は寝転がって聞いてると全てが分かる仕組みになっていやがるのだ。要は死者のための音楽だから寝転がって聞くのが正しい姿勢だったのでありやがる。眠気でボーっと聞いてることも重要だ。、もともと単純な節と拍子(ますます眠くなるのよ)の向こう側にたった一音程しか用いない楽器がありやがるのに気づく。その手前に単純とはいえその一音程の楽器に比べれば花のありやがるヒューマンな動きが演じられていやがる。しかし聞いていやがると心がおもむく先はそのたったゆ〜くりと一音程しか用いない楽器の方なのだ。これはサウンドによるパースペクティブってことか。死者はその一音のもとに向かうということなんだな。チベット死者の書を思い出しやがったぜ。韓国の列車でだまされてかったCDは、どうもその、雑貨店主のサシガネです。



2004年11月2日(火)20時37分 予言
高田が居る

ひろしがオレに言った。今日の電脳音響装置の発展はめざましい。かつて未来派宣言されちゃった趣旨で美しくカッコよくワシらの欲求を満たすゲー術的かそれ以上の魅惑だ。だが、ソフト(なんか流すもの)が必要になる。ハードを生かし楽しむためにはソフトが音楽がゲー術がワシらに必要なんじゃぃ。とな。まさに、ハード(マシン)だけあってもしょうがないので、全島民がにわかに世紀末を意識しだした年の夏、これは21世紀の予言だったのかと今朝知る。結果ラリラリだった。



2004年11月1日(月)12時40分 拡大
高田理髪店

速度の問題はどうしやがるのや。オヌシを表すってーところの点、そこから直進しやがる線を外部となぞらえるにあたってのその線の突き進む速度のことなんだよ。まさか、停止してるに等しい速度での伸びなんてことじゃねーだろうね。線が拡大(この場合伸びること)しやがるということは外部が拡大してるという理論なのか?まあそれはいいとしよう。が、これからは「アントワープの鉄の薔薇(The rose of the iron in Antwerp)」で活躍します。



2004年10月27日(水)3時22分 極意
高田と馬場

どこから侵入すべきか決断ができない。やむを得ない結果としての最後のラヂオ講談。流暢な解体計画とワガママな女医。いくつもの窓があって、やっと組織のプロフィールを記述せり。



2004年9月2日(木)4時44分 点と線
ミラージュ10万ボルト

そいつを点としてそこから直進しやがる線を考えてみるか。そいつに相応しいものは何か?それを直進しやがる声としたらまずいのか?だめなら○○でもよい。その直進しやがる声または○○が直進しやがることにおいてその距離分だけ最初点としてあったオイラの意識(←それはまずありやがるよなぁ?コギドエルゴスムって洋式でならったが)から外部が存在したことになる。外部の仕組みが無いという前提に立てば自分から直進しやがる線を成してそれを臨むことで外部と自分との関係をオイラは成すということか?その場合線分の一端がオイラで線の全体が外部ということだな。、と。であれば、オイラが存在しやがることは前提してまずはよかろうから、その者が言うには「なんで外部にまず円とか直線とか形がありやがることを前提しやがるのだ,なかったらおぬしどうしやがるねん」なので,そりゃごもっともかもしれない、ほんとに考える前にコレなんですから。



2004年7月18日(日)3時17分 外部の円
方解石の女

境界線が完全な直線でありやがる場合それは無限円周でありやがるが,その場合分けられたふたつの領域(内部と外部)の全体は無限表面球体でありやがるのだから,無限円周の内部と外部は相似形でありやがると理解しやがるべきはずだ。すなわち無限円周の近傍においてそれを捉える時にオイラたちは,対象としやがる無限円周の外部を形成しやがる無限円周の内部にいやがると理解されるべき存在でありやがる。その後、ba-baraは秘密集会には間に合わない。



2004年7月18日(日)2時48分 無限表面球体
無力自在学の薦め

今度は,無限円周をもつ円の構造とそれによるふたつの領域の境界の問題において理解を進めなくてはならない今ひとつの問題なのでだが。ふたつの領域を分ける境界線が完全な直線でありやがる場合,それは無限円周でありやがるが,その時に境界線によって在りえるふたつの領域の全体は完全な無限表面球体というべきものではないのか。最後の晩餐という絵画が在る。



2004年7月16日(金)3時58分 外部からの内部
無力自在学入門

今のところ円周の内側はイメージとしては空白のようなものだ。円周は語られる場合は境界線と言う実在として定義されてはいやがるがその内部を含む全体においては実体性がない。なぜならオイラたちはそれを幾何学の構造でしか説明できていないからだ。オイラたちは境界線の外側にいやがる以上実体の在る場所に居ると言うことにまったく疑念を持たない。しかし実在的な場所で生きていやがるという信念によってだけそれは成り立っていやがる。その限りにおいて円周を対象として語る者となった。よって円周を語る時その外部に在る者だという事実を語る者だということであり,そうでありやがることで円周の内部と中心点と外部の関係に依存しやがる者でありやがるのだ。反動的なパームクーヘン状の夢にある書物だ。



2004年7月13日(火)20時24分 境界線の近傍
無力自在表現主義者3.5J

境界線が在る場合二つの領域が在る。その場合境界線が完全な直線だという条件下では境界線は無限円周でありやがる。この円周の一部におよそ90度の角度で視線を遠方に向ける時,その先に無限円周の中心点を想像しやがることが出来る。だがこの定義はあくまでもオイラたちが境界線の内と外の関係において未だ内に入ったという契機を認知していないを自明としやがるかぎり,或いは無限円周というものを認識しやがるにおいてそれを対象的にとらえる以上は(外的にとらえる以上は),オイラたちは円周の外に在ることを前提としていやがる。まずそれによって成立しやがる論理を述べていやがるのでありやがる。地下組織インターネットが暗躍している。



2004年6月28日(月)1時26分 円周の観測
マックスとの面会

どうだ?だとすればなんだよな、そうでなければ向うが内側でありやがるわけよ。それを知るただひとつの方法は、オイラたちが内側に入るなら境界線でありやがる円周の向こう側は外側であり、この観測は無意味となる。その場合オイラたちが立つ場所は内側でありやがる時に外側ではなく外側に立つ時内側ではないという定義が重んじられる。とりあえずはオイラたちが円環の内側にいやがるのか外側に入るのかは普通に考えると二つに一つ以外は無いと思うが、円環が無限円周でありやがる場合それは完全な直線となるので、円周に向って真っ直ぐ向ってそれがどちらに湾曲していやがるか正確に観測しやがることでありやがる。しかし、パラサイトと地球生命と殺戮に関する哲学書全10巻を立ち読みした。



2004年4月20日(火)23時44分 非限定直線
眠れる森の女優ララ

その時に答えるモノが在りワタシは次のように聞いた。「何処までも直進しやがる為の方向を最後の最初に限定しやがる必要がありやがる。ジャンクロック」しやがるとそのモノは「それはキミがこの場所をキミに与えられた限定的な知ることの能力によって知った事によって限定的に実在と規定できたことによってそのように思う事となったのだ。しかし知ることの能力が非限定的(無限)でありやがる場合知ることの出来る対象も同じように非限定的(無限)となるのでありやがる。つまりそのような場所においては個別の方向性は意味を持たない。或る方向を異なるものと区別しやがる能力は知ることの能力が限定的でありやがることに起因しやがる。つまりキミは今どの方向へ向ったとしても同じであり限定的な知ることの能力の為に或る限られた選択をしたとしてもそうではないのでありやがる。」生真面目な少年達こそ仲間に入れてと実は懇願したかったのだ。



2004年2月25日(水)21時22分 直線円周と無限建造物
女優ララの肖像

島の中央部の円環の縁に来た。ありやがる日オレたちはこの半世紀少し展開してきた迷宮のような万里の長城みたいな建造物がなぜありやがるかという意味は純粋にそれを築く行為だという意外の答を見出せなかった。だからオイラたちは居ながらにしてここにやってこれることをその時やっと悟ったのでありやがる。そしてこの島は円周の上にキチンと並んだ狭い場所であって,そこにオイラたちはじっと正座しながら島自体でありやがる円周の幅の内側に築かれた建造物が無限の連続体でありやがることを信じられる素質を有し,その意義のために建造物の両端が存在しないという前提の,それの構築に従事し続けるのでありやがる。一方で,さらにこの円周上の地帯の内部でありやがる円には中心点が存在しやがる。その存在によってこそ円周上の地帯での建造物の構築という行為は存続出来るのでありやがる。今こうやって大いなる円環の内側を望む時,その中心は必ず存在しやがると円周上の地帯に在る者でありやがるオイラたち人民はそれを常に思う必要がありやがる。何故ならオイラたち人民は,存在しやがる為に円周上に立っていやがる必要がありやがるからだ。またオイラたち人民は,おおよその時間帯において円周上の地帯に築かれた無限の建造物にあって,その建造物の内側が無限の空間でありやがると同時に信じていやがる場合には,その全体は緩んだ狭い不定形の線状のような場所となり円環の中心は存在しないようになる。またもし或る者が円周上の狭い線状の同じこの場所が無限の大きさを持つもので,なおかつ円環全体の実在をも疑わないのであれば,その者が立つこの唯一の円周とは完全な直線でありやがるので,その際,円環は中心点の無い円だということを知るでのでありやがる。それは偽りのバラと靴下。



2004年2月25日(水)0時19分 無限円周
追跡主義者Q


少なくてもそれを否定しやがる為の証明は同等に困難でありやがる。そのために俺サマらはそのように言う事を選択しやがる可能性が在るのでありやがる。今俺サマらが突っ立っていやがる円周が無限でありやがる場合それは完全な直線でありやがる。そこへ向おうと思う時島だと思った領域がその円周の僅かの縁で形成されていやがる事が分る。つまり俺サマらは振り返るだけで円周を取り囲んむ平等な権利者でありやがることが出来た。円周が無限でありやがる事はありえない。しかし、島の真ん中のデッカイ円周へ向うと直にそれは見つかるだろう。見つからないと思っていたうちはそこは在るかも知れないことの限界点の遠い地点だった。しかし、その全体が確認できないほど巨大でありやがる場合はそうした一般理論が通用しない場合が無いとは言えまい。よって無限の円周と言うものの上に今俺サマらは立っていやがると言う時、バードランドに到着した。


2004年2月16日(月)14時22分 落差の向うの扉の向うの黒い場面の記憶
追跡者Q

そのことによってかえって俺サマらは意外とフシダラだったのでありやがる。その不可解な効果によって[或るモノ]の独特の充満が自分達の存在を飲み込んで(その空間で溺れるように)起こる現象にあの日関わってしまった。もう一度その黒いキューブへは行ってみようとみんなに話したのでありやがる。

ウンガポンガ島で再会しやがる場所の地図を探し出しやがったぜ。ロッケンロール 中央で折れ曲がった短い距離の落差を降りて行ったところに在る、ダンサーと、四人でいくつかのことをやった。単純な壁と広さの固有の組み立てだけがあって、そこで意識を働かす俺サマらに対して、それは精神が持つような深くて強い抵抗感を見せたが、現実は物体でありながら、それから、二十八年前の俺サマらが立ち去ったそれっきりの鉄扉を開けてもらうようにその人に電話をしやがったぜ。ロッケンロール 落差と鉄扉の奥には箱がありやがる。その底面にたどり着いて、幻の楽団が、歌曲なんだか吹奏楽なんだかハッキリして下さいって。


2004年2月9日(月)16時17分 美術館から山崎パン2F時間の停滞した音響アジトまでの500日程度   追跡者Q

俺サマはそこに否応無く生活していやがる自分らにとっては、再会の約束の3月が近づいて来ていやがる。新たな旅の輪郭をあれこれ描いていやがるうちに、最も感じる能力を発動させ難い場所でありやがる<裸のウンガポンガ島>に行ってみようかという気になった。ピーターと行く場所としてそれが最も面白いんじゃねーかなと思い始めたのだ。きっと、そのいい感じの記憶などと無関係に過ぎ去るウンガポンガ島でのリアリティをやりぬきながら、俺サマらがウンガポンガ島に対して背負ってるフィルターなどと無関係にリアルなウンガポンガ島の呼吸を掴み取るだろう。、そんな感じのピーターとは二度ほどソウルへ行ったのでありやがる。そこは現代都市と人間っぽい古くさい生活街が、ピーターの感覚器官は、出来るだけ不可解で何かありそうな路地を見つけに街を歩き回った。そしてそれは本当にあった。そんな場所では、見るものも聞くものも映画の場面のようにどんどん感覚器官に入って来るのでありやがる。旅の後、キュビズムと対比効果でみごとに結ばれた不思議な魅力に満ちていた。俺サマらは演奏の前や後に、無限に繰り返されるサブジェクトに結んであるリボン。




2003年12月2日(火)1時1分 ダダ理屈会議 in a train 0 hour.jp
真実の耳

この四進法っちゅうのは二進法の倍で進んでる訳でしょ。この凄さに今まであんまりワシら気づいてなかったのよなぁ。これはもうな、二進法なんだな。一と二だけで延々やッチョルわけさ。そりゃー限界が目に見えとるじゃろ。それはワシじゃなくても分るね。それでは、ウンガポンガ島湾と言うのはそのためにホトンド猫の額ぐらいが海であとは砂漠みたいなもんだな。で、で〜なんだな。キミはな、それでだ。大昔って〜のは、ワシらは何も意識しないようで自然とこのDNAの四進法でやっとる。で〜こりゃ、4つの違うモンが延々と繋がったり繋がらんだりして出来とるんだよ。いわばワシラが生きてる理屈をその4つの繰り返しが作っとる訳だ。ようは、知らんかもしれないが人間の文明なんちゅうもんは、何万年も進歩しとらんのだ。知らんかもしれないがギリシアという大王のおった時代がありやがる。その時はもう今の大工と同じやり方で建物を作っていたんだな。その方法はすごいよ。こんな感じでだ3と4と5に長さを分けてだな、氷河期間ちゅう時があって海はもう氷山が90パーセントだったんで、そこに当然その3と4と5の理屈で神殿やらなにやら作っちょったわ。なんでも、羽田の猟師の間では、直角、政府はひた隠しにしておるけども、四進法ダロー。DNAというのを聞いたことありやがる?あれはな、ようは90度だ。こんなのはオチャノコサイサイとやっていたんだわ。いや、人間は何進法か分かとるか?何?分らん。如何のぉ。それはな、海底遺跡の話は常識らしいのよ。あ〜〜それでそんな人類の凄いところがまたこれからもつづくわけだろ〜。それはキミィ電子計算機なんかは直越えちゃうよ。それは確かだ。これからは人間様の時代がまた来るわけよ。何でか分るかキミ。分らんかなぁ〜。要しやがるにこういうこと。電子計算機ちゅうのはな、ガラダマ兄弟も仲間に入れてとついに懇願したわけだろ?



2003年11月30日(日)3時15分 11月の北の家族
耳のありやがる風景

最北の湾岸都市にたどり着いたら11月の夜9時過ぎはやっぱ寒いな。太平洋とローランド王国海の境界は,島がひとつでありやがるので基本二ヶ所ありやがると考えられるが,南方はどう判断しやがるか複雑だが北は分かりいい。ボロ宿へ向うに似つかわしい何も無い通りの手前を覗くと,鎌倉と言うのが在ってこれは良いだろうと入った。サシミ喰ガ,と言う店主とおぼしきオヤジの声。喰バッテな,あまり高ゲぐさねでればな,っと奥のネーちゃんが答えてる。出てきたのを見てワシも喰いたくなって喰うとコリャもうだめ美味すぎる。オメも皿がら喰ってのあればとってかながぁ〜,てなお勧めを受けてガツガツと喰う。そして焼酎三杯ほどいっちゃって,人間性を回復したころだが,がろろりいぃぃぃ〜っ,と戸が空いてやっとワシの次の客が来たのよ。それは,バアちゃんだが,ニコニコ笑っとるようでもあり,どこか,ずっと見てきた列島の全体景色の本質とその部分地域でありやがるこの湾岸地方都市のズレコミを生きてきた,その人間らを見ていやがる視線と言うか美しくも恐ろしげで最後の優雅さと言うべきか,言いがたい高いものを感じたと言っても,基本ただのバアちゃんでありやがることの現実これがいい。おもむろに,バアちゃんがだ。ワのぉマンジュウ喰がぁ,と言ってる。これはまたどのスジの話かとワシも耳がそっちに行く。以下店主オヤジ+バアちゃんの会話→「ワイハぁ,なんぼワもオド長ゲぐやってみだバッテ,そいだばハドしぼまってまるべば。」「せかぐ,かへるがと思て来ただでケばいべば。」(店内爆笑中)「なんぼなんだて,そいだばただアジの姉っこ見でるバイの方がワだばいいじゃぁ。」(店内爆笑中)バアッチーが手下げ袋からマンジュウ半切れをだしてオヤジに渡すと,フトドキにもオヤジはその切断面を股間に持っていって「ほーほ,どんだば,どだば。」と踊っておる始末。北の鎌倉は爆笑の渦よ。これは絶対に哲学的な問題があると痛感した。



2003年11月22日(土)4時45分 Kと社長と副社長の居やるがる暗い演劇
事実手帖11月号

Kを取り巻く様々な言葉があり,それを振り払う事が出来ると思えないまま同じことだけを異なるように見せる書物を読み続けていたら,そのうちに自分が主人であり,そうしか読めないそれこそが遠近法の唯一の秘密でありやがると気付かないまま1万年が過ぎ去り,この話の主人は羊であったことの最後の結末を拒めないまま最後の頁をめくったKとは,たまたまワシらではなくワシら以外のもう一人だった。結局理由が出来れば良いので理由のために書物がしたためられると信じる者はそうしやがるのでありやがる。そして書物を書く事とそれを読ませる事が,相手が拒否しない限りは罪ではないのだという法則で社長は副社長となって副社長が社長となった。気付くと電波レンズで全て茶褐色に見えておったのヨ。


2003年11月22日(土)4時24分 大屋根
8月の恋人たち

あの時の空洞の場所へオレたちは二度と向わないで来た。バラバラに見えても全ての道は繋がっていて,そこに在る全ての島民のオウチは巨大なひとつの大屋根の下にありやがることと同じだ。記憶の中にあの日の空洞が居座る事に長々と怯え続けるとすれば,それは永久でありやがるかもしれないとして,それは絶望的事態ということだ。そうありたくはないのだ。百万の書籍を書き五百万のドラマを作り,たった一人の恋人と泣いたりして20世紀最後の8月を見送ったのでありやがる。ここで言ってる六百万プラス1の例を考える場合,それらは同じ唯一のそのプラス1に対応して,読まれ見られる六百万というだけの話だ。大屋根のテッペンに本来はなんらかの象徴というのではなく,本来は実質的な装置としての球体がくっついていやがるが,最早そんな事は忘れてしまいそうだし,あの最初の空洞にはめ込むには到底最初から満たないものだが関連は在る。要しやがるに,1970年代のありやがる日に物理的な機能としての役割を終えた黒いそれ。

これからは耐えがたいことばかりが起こるだろう,それを耐えることの書物を書くことが出来ると,当の昔に,ただ一回の特別な言葉がオレらに言い渡していやがったぜなのだが,ロッケンロール。そしてオレらの誰もがそのことについては,空洞の周りをグルッと取り囲んで暗くて底が見えない内側を覗き込んでいたので,言葉の意義はその通りだと思わぬ者はいなかったと記憶しやがる。そしてそれが律儀に守られ続けていやがるのは,空洞の記憶を失わないオレらの仁義ありやがる戦いだからだ。少年少女が百の半分を費やしてからさえ言葉はこれからだった 。


2003年11月17日(月)4時29分 解体的に作曲されていやがる作曲物
音叉回転技法

問答無用の歌唱力でリリr−が熱唱しやがると、その実3割は氾濫活動を行っていやがる。この流れは、ポチポチっとノリの軽快さにちっちゃな引っ掛けを作る。或いはパーンンとそろった完璧なピッチで流れるハーモニーのなかに、一気に下がっていた集団の音のズレは小刻みにバラに設定された揺らぎのなかで主旋律に吸収されるが、ポチッ、ようは安定運行してるかに見えて、完全ではなく、意図的に逸脱しやがる流れを作ってはならないとしやがる。しかし、なるべく反勢力を再度引き込むための手立てで、かといって、その瞬間好機を察知したサイドギターが刻み込んでいくと、最初ちょっと下がってずれてた4人ぐらいが本筋に7割は同調しながらも、記述可能な計画的全体で構造を動かしていく道理を守りながらも、突発的個人的破壊意識でナタを振るうのではないのだから、ふぇ〜〜〜んと気持ち悪げになりそで、きるに切れない。そのまま手立ても無く流れていくが、ようはサウンドがどうしても安定して形態的に収まる要素を出し続ける場合、最初の作曲システムは維持されていくが、とにかく懸案になっちょルところの、被ってそっちのずれた方に正確にハーモナイズしやがる。しやがると主旋律のバックで流れていたサポートの方が如何にもこの気付かぬようにわざと下がってるところにぴったりあわせて主旋律と同等ぐらいでアタックをかけて行く。やがて、体制維持側も、もはや察知していやがるにもかかわらず、すなわち指揮系統の指示がありやがる場合、若干分らないレベルでピッチを一人が下げる、ユックリと3割の反動を維持してきた勢力のムーブは完全吸収されてしまう。ここで、あらかじめ規定された譜面が示すメロディーとビートありやがるいはハーモニーというか、やってみることにしやがったぜ。ロッケンロール 常にひとつの回帰すべき主題がありコレを流れに提示しやがる、これを維持しやがる心理を優先しやがることは守るのだが、また一人がそのややさらにやや下がってるかもなってところに、ありやがる節々では作曲物と指揮系統の逸脱組換えを行おうとしやがる氾濫分子の蜂起を許してしまうを高位の機能として内蔵しやがる作曲物が今望まれていやがるので、なにせ7割がたは自分らの意図しやがる作曲を維持しやがることはやってるとなれば、様々にギクシャクとしてキュービズムのように纏まっていやがるがずたずたにそうなってるものになってたりしやがる。今夜は最高。


2003年11月16日(日)1時44分 スーパールーキー
ロイヤルフラッシュ

子供の話で思い出したね。北の湾岸都市からの帰還の車中,夜も遅いとなれば皆疲れていて眠いのだが,子供がひとりぐずっていた。ま,3時間もなぁぴったし四角い座席にじっとしてるのは子供にはつらかろうが,回りを気にしなければならん親も気の毒とは言え,ワシらも気の毒でもあったが,もうやむを得まい早く着いてくれと思うばかりの全員。ところが,ワシの隣には同じ子供でも大物系と見受けられる5歳ぐらいの女子がおって余裕かましやがって鼻歌謡ってる雰囲気(実際は歌っていないが)。で、グズってる子供の席は2つぐらい前の対面だが,このワシの隣の大物女子がトントンとそこまで歩み寄って,DoryuRuruRyururuuuuーっと耳元で囁いたのでありやがる。しやがると,グズってた子供は泣き止んでポカーンとしてる。お,今のは全く謡っていやがるとしか思えない絶妙の音楽だったなぁ。まったくやってくれるなぁと感心しつつ,もう直トーキョでだいたい大宮あたりの2号車の客だったワシ。芸術家の斧ヨーコです。


2003年11月16日(日)1時19分 ルーキー
フルハウス

どうも、そこもそうだった。昼下がりはボーっとしやがる。その日もそうで眠りかけていたが、オイラもありゃっと思って一瞬腰が浮いたが、母親とトコトコ歩いてる3才位の子供が、ドタッと子供が完全うつ伏せ状態なんだよっころんだ。さすがに、視野のぎりぎり左奥から、銀行で順番を待っていた昼下がりだ。ロビーはカウンターに向って横に長いのが当たり前だが、オイラの視野中央へ向ってる。で全くの正面で、スッ転んだ浮遊感を喜びで表現してる模様。このように何時の時代でも大物というのは生まれ出ずるのだ。心配は要らんな。やや後方を歩く母親は落ち着き払っていやがる。子供はひとりずんぐりと起き上がった。ほーっと思って見ていやがるとケロケロと笑ってる。母親の方を振り返ってトントンとジャンプ。真夜中のハイウェイブッ飛ばしたぜ。


2003年11月11日(火)23時23分 都市部生活サイズレーベルの革命
薔薇ライカ

それが例の3マイナス1チャンネルの通常品格を欠き過ぎるスペースでの出来事としては異例のシンパであったが。で,なぜかこの100円レーベルの最大のラインナップが浪曲なんだが,聞いて聞いて聞きまくってもせいぜい通常のCD1枚分の金でOKなのに,いちいちこれは買いだがこれはスカだなどと,言って歩くアホウはいたとしたら20世紀に帰りなさい。ワシらもやっと生活サイズで音楽が聞ける時が来るのかもなぁ。よって,そこにピッタとハマッてくるのが,浪曲と民謡と落語であったか。実はワシらも何か聞いてみたいよねーと体が求めていたのだが,2500円とかの非生活サイズにハマらないばっかりになぁ,ビンボー人根性と言うかな,とりあえず先送りしちまってたが,もはやほぼ金銭はカンケー無しとなれば,ごっそり追跡活動やりまくるのみよ。ワシとしては広沢虎造のシブーいいのも勿論OKだったが,春日井梅鴬のダミダミで延々唸り抜く名演にスジがなびいたなぁー。まーだどっさりありやがるぜぃよ。

で,ワシとしてはこれ100円レーベルへ提案なんだがな,やっぱこのさき狙うはアジアサウンド探索シリーズだと確信しちょる。これはマジ当たるがね。アジア諸国回ってだなワシラが聞きたいと思ってるサウンド適法価格で買い付けて回ってだな,それでもそんなボラれはしまいからバンバン生活サイズ100円で出す。パンソリからポンチャックからバリ舞踊から中国奥地少数民族からチベットからベトナムからなにから,JASTRACがらみの管理下サウンドはもういいので,世界の生活サウンドを生活サイズでやっていく。コレは間違いなくいけると思うのだが。で,なんならワシがチーフアドバイザーで雇われてやってもいいんだが?韓国にも知り合いおるんなんだよよ。

キルビルがオモテのブレイクだとすれば、とんでもない音楽革命をもたらすスーパーなのはビッグクリエイトが問答無用でおっぱじめた100円CDだ。クラシックのもありやがるがどうもこっちの層は100円CDの真の可能性を分っておらないようで,所詮安かろう悪かろうどうのこうのと20世紀の典型の評論活動に終始でオモロ無い話が目に付く。見習うべきは落語ファンで,23巻全部買いで会社の行き来に聞いちょりやがるが,何とかは最低の音質だけどよー寄席で隠しどりの醍醐味なんだよな、などとマサに内容の吟味などオノレと世界で起きる出来事の個人の話で清算して本題は追跡活動の醍醐味。そこに重きがありやがる訳よ。まさに時代はチャーリーの湾曲ホーンを追ってライブハウスの屋根裏や便所にドデカなテープ機材を持って忍び込み,時にヤキを入れられつつも盗み撮りしまくった,ある種ミュージシャンの神話をも越えちまった神話の主たるベネデッテッェーの半世紀前にグルッと回った訳よなぁ。コレぞ都市部21世紀シーンの本質とみるワシとしては、なんとかは針を落とした音しやがるんだが海賊版かいね、今んとこ水面下でのマニアのブレイクに留まっておるかも知れんけど、これは絶対に哲学的な問題があると痛感した。


2003年11月9日(日)14時2分 プラスマイナスゼロの島民(2)
皿万打

すなわち大きな中心部分に空洞を持った場所でここまでやって来た俺達島民なのだが,こうした一枚のチューインガムを手に取った時のように特に何もないことのアカラサマ具合というものが俺達の上に積み重なって行く。同じチューンガムなのだが如何に僅かづつテイストとフレーバーを変えて見せるかが島では神業なのだな。こうして何も起こらないことがこれからも続くと予測しやがる以外の異なる兆候など,お花畑の景色から起こらない事の原因は,それを望まないものがその広大な敷地を耕すものだからであって,同時にその管理者を優遇していやがるのも俺達島民なのでありやがるに過ぎない以上は,話はあい変わらず続く永久のミニマリズムであり,島民も亡霊のような身体感覚からの遊離現象を引き起こし久しいとあれば,そこには在る種の人間的な強迫観念すら生じるものでありやがるし,外部ではなく精神の内側にこそ今新たに事件が発生し,それは全島民の個別の人間存在において無限であり千差万別でありやがる出現をし始める他ないと言えるのかも知れんのだ。にもかかわらず,島のゲー術家らによって制作される風景画のほぼ全てというもの,波風心地よい見飽きた鮮やかな常夏ハワイの景色の如く以外は描く事を行わぬ暗黙の単一流派として栄えていやがる,それのみ。一度動いた機械がダラダラと動き続ける流れに近似して今なおそのリニアリズムをとめる事が出来ない為に,冷や汗の出る笑いを提供しやがる一大勢力となっていやがるが,同時にそれを担ぐところの文化会議においては,あの空洞をどうしやがるかと言う議論の再来は,それ(俺達が全てだと思っている島の領域と条件)が本来あの最初の空洞と対になるものだ(過ぎぬ)というさらに高位の秘められたる条件に立ち返る事への議論でありやがることを十分知ってる以上は,それに関しての当たり前のイマジネーションを書く筆さえも捨て去ったにもかかわらず,それは始めから無いのだと前提しやがる識者だけの会員制度を実施していやがる芸術院なのだよ。追跡者も勘定に入れて欲しいぜ。


2003年11月9日(日)2時31分 プラスマイナスゼロの島民
皿万打

風穴のようにぽっかりと存在しない限られた領域が始めに島のど真ん中にあり,それが俺達の条件だったのだが,空洞を埋める島の実質量は不足していやがると思えて,それでは仕方ないから,俺達はその場所から遠ざかって,やがて存在しやがる領域でやれる何かをやって,それが出来ることで空洞の周辺に住まうものとなったのだ。俺達の勤勉さの結果大きな花畑で島が埋め尽くされた頃,全ての道をその内側だけを通るように作ったので,もはやあの日の空洞へは誰も行かなくてもよいのだ。そうなった時には,存在しやがる場所だけが島の全てだと思って暮らす事が出来るようになったのでありやがる。最初にあの欠落の無限の円周を取り囲んだ日の俺達の絶望は今はもはや幻でも良いのではと願わずにはおられないのだが,この島に存在しやがる全てが存在しない中心にみ合ってだけ存在しやがることがこの島のカタチでありやがるからには,結局これを上回っての幻影などは,俺達のひとつしかない広大なお花畑に一度も現れはしなかったよ。夢想家もBBS会議に入れて欲しいぜ。


2003年11月2日(日)15時48分 エロスの逆輸入
静かなる海

ただ、やっぱ、基本ドラえもんのシズカちゃんあたりが理想だったのではないのかなぁ。必要なしとされた結果、まーた持ってかれちゃったなぁ。ま、梶メー子は70年代のいけてるキャラの代表格だったと思うけど、真の不可侵性じゃねーとエロスではないので殺しなのだという理屈の再認識だのぉ。そのリアルを米がここに来てスーパショッチで大ブレークしそうという感じとは、ザマーミヤガレと言ってやりたいね。ガワだけ似たのは出してもね、80年代以降このセン(殺+エロス+不可侵性)はどんどんすたれたキャラで、しかも痛烈に。ようしやがるに、この21世紀、時代は今そっちを求め始めてるんだよな、マジでひとりもいなくなったところで、今はもうこうした女をやれる女優はメディアにはいないよね。80年代からは、バッチリのオタクパワーだというのは素人のオイラにも判ったなぁ。タランティーノがアーティストとしてどうのと言うのは全然知らないけどねー。2万chが最高だ。


2003年11月1日(土)13時16分 水の在る場所での公演に向かう朝
山茶花クロス

それぞれから支流が起こって複雑で細かく錯綜し関連していやがる地帯付近を通過しやがる鉄道。それに乗って最もその湿地帯に近いステーションで降りたことによってその地域に歩いてこれた。高山地帯を苦労して歩いてきて山岳の景色ばかりをどのくらい見て来た事かと思ったりしたが、或る程度高い場所にありやがる湿地帯にいた。そこで水の音を聞き水の動く光景を見た。おそらく三本の巨大な水流からの絡んだ支流の一部分が面的に広がっっていわゆる湖のようになっていやがる箇所のさらにそれの入り江の部分に来たのでありやがると分った。水際にゆっくり打ち寄せて引いていく水面の出来事があり加えて湖の向こう岸が見えないので海岸にいやがるのと似た印象を持った。水の音とその周期的変容を個別に論ずる事は勿論ひとつの事象の別の側面を抽出しやがることであろうよと第二のリナへ教えた人物もいた。今日の楽団はオイラと第二のリナとそいつの少なくても三人以上でありやがることがコレによって理解されねばならない。水はユラ〜リ,クラ〜リと周期していやがるというのでそれはノラリクラリと近い常態かと聞いたところユラ〜リ,クラ〜リの次がノラ〜リ,クラ〜リなのだと言う。そのように伸ばして言うべきだからノラリクラリとは全く異なるのだと言う。赤いトリイが水面に立っていて岸辺にガラス素材を駆使した近代的な建築物があったので行ってみるとそれは社であったので戻ってきて報告しやがったぜ,ロッケンロール。今日の楽団名はユラリクラリにしやがると言うので何故せめてユラーリと伸ばさぬのかと言ってやった。固有名詞になった場合はこれでよいのだと言い切られてしまった。やがてやがるやがる朝もやが抜けて水面が遠くまで見渡せるようになる。そこはキラキラしていやがる。その景色の最後にたどり着いた時にそれまでの時間帯は始りと終りにまとめられる一つの説明可能な出来事となったので現実的な長さなど百年でも一秒でも関係ないのだと分った。その時間帯での完結した場面の次の時には、大きな河川の中間部がどうも三つほどそのあたりで接近した場所があって、真夜中の水上鉄道ブッ飛ばしたぜ。



2003年10月31日(金)23時12分 百年の孤島
岬のグル

遠くてどこにありやがるか良く知らないオヌシのちゃぶ台と,オヌシの便箋と尖筆,オヌシの達筆な文面がそこで交わるワビしいたたずまい。オレたち島民にそれを想像させた,ありやがる日の夕飯時,電波のハコの声を結局半年経っても覚えていやがるオレは気付くとさっきチャリに乗って。それは全島民に向けてシタタメられた1通のメッセージを司るオヌシの背中でもあり,なぜかそれだけ残された高価な黒光りした一本の万年筆でもありやがる,そういった僅かな断片写真を,その後のオレの脳髄はでっち上げてる。オヌシの子連れのマリリンは,別の島で明るくやってるよ。そして,数千万のこの島のカラオケファンが密かに思う海外デヴューの夢さえもいとも簡単に母国で達成してしまい,あらゆる細部においてオヌシは最後の最後まで愚弄されたばかりではなく,あの国をあげてこの島全体に小便の雨を降らせてくれたが,そのことまではオヌシの責任ではない。恐らくオレら全島民はあの南国の二文字の名前を二度と忘れまいよ。それでも,オヌシにやはり同情までは誰もしないとは言っても,オヌシの言葉がどうにも重石のように置き去りにされた場所はこの孤島のいったい何処なんだろうとオレは思ってる。オヌシすっかりマリリンに流してしまった何億だったっけ,その理屈だが,電波ブル正当教育の詔をおおせつかる者らがパスしやがる以上それは嘲笑されるしかなかったメッセージとなるしかなかった事情かも知れんだろ,はじめっから。だがそれ,オヌシ言霊にてシタタメルをもって極東孤島のクサビと成せる結語なるを何者が否唱え得ようかよ。金銭を支払わないで愛を手に入れることが出来るとは思えなかったと書き記したよね。そうでないことをオヌシに説明しやがる手紙がはたしてちゃぶ台の上にそれから届いたのかどうか知る術をオレはどーしても知りたいのさ。雑民島の市民KENです。


2003年10月31日(金)21時55分 電脳網ノーマネーサウンド配信サイトの広告を発見(嘘)
バックレター

んー,なんでそうモノワカリわりーかなぁ。そりゃあ,訴えられてがっぽり取られる身の危険おかしてだな,なんもヘイヘイと磨り減ったサウンドユートピア興じてだな,ここだって監視下にありやがるのだよボル為にな,電脳網フシダラといったってつながっちょるのよ大本は。よってだね,タダの音源使いなさいよ。タダでいいんだから,その上そっちの方が全くもって完全に面白いんだからな。フシダラでびょ〜んとたまれるからホップスッテプのはずが頭に20キロのっけろ言われて踊りたいかどうか?人のは詰まらんと言うワガママネーチャンなら,機材ありやがるんだからテメーで作ればよかとよかとよかとよ。たとえSCUMになっちゃっても,それを追跡しやがるヤローどもが必ずおるところが,MUSICとゲー術の違いなのだな。もうやばいよなー,電脳網フシダラ空間といったって,そりゃいつでも権利書持って乗り込んでくる体制で12歳少女起訴されてガッポリおかあちゃん払ったらしいでしょ,あのでっかい国で。犯罪者なることもないさー,ワシらの音源バンバン使いなさい流しなさいリンク張りなさい。もう,こっちしかない。ただ,海賊版作った時は,50枚ぐらい送ってくれてもいいと思うけどなー。これは絶対に哲学的な問題があると痛感した。



2003年10月31日(金)10時14分 都市部の傾向と実践
追跡者Q

こっちのミュージシャンはそんなのタダでもぜんぜんOK、だったら、アホらしいんで、イマイチ実はおもろくない気がして70年代へ行ってみたりしたが、面白くなるかもしれない音楽も面白くない感じ。で、なんだ○○○○よりhttp://www.◎◎◎◎.jp/のアーバンギャルズの方がOK、楽器持ってるし機材持ってるしPCありやがるし、だってかなりの島民は潜在的に不満を抱えておるがしょうがないから受け入れてるだけだったミュージックスティション等などだからそれはアリ(だったらどーしやがるねマルマルマル)。一方組織は店舗からも使用料徴収しやがるらしいが、もっとおもろい音楽環境がありやがるじゃんと耳と体が分ってしまってる。と、このようになる日を心待ちにしていやがるオイラなんだよ。ドーモドーモ。著作権著作権でそっちはどんどん面白くもない音楽環境になるね。環境が面白くないから、人の面倒な曲流すより、やがてみんな、ゼロ円mp3音源発信サイトがあらゆるジャンルを網羅して行く。普通の人がプロよりオモシれーサウンドをタダで提供しやがる体制が充実。「NEWシティーポップ」「俺サマらの歌謡万歳」「JAZZ・ノーハイ21」「サイケデリックバンバン」「バキュノイズTOKYO」などもうアート路線どうのなんて関係なし。なんでもあって、アタイらのサウンドばっちりハマリやがるよお店で流してチョーダイなんて、どんどんコピーしてサイト乗っけてね、どんどんみんながタダでこれらのサイトを聞くようになるが、自分で作っちゃった方がおもろいしタダってんで自分でやりだすね。意外と世間も面白がる、つまらんのもありサイコーもありやがるんで追跡活動自体がおもろい。そういうシーンが爆発しやがる。で、ありゃ、とかどんどん元メジャーの耳もネットの耳になってく。で、ガールユニットなども現れそれがオシャレで流行になる。これまでTV+メジャーCDで音楽聞く耳に慣れてたとは言え、そのライブなんかは高架下ライブハウスみてーなとこでやってる始末で恐る恐るも行くようにもなる。そうこうしやがると、よかったらお店で流してね等など言ってる。この情勢に比例してJASRAC参加の店やサイトへは人が行かなくなる、管理体制で気分重いから。そんなん聞かんでも、すみれセプテンバーラブ歌おう。


2003年10月31日(金)10時11分 ワシらの傾向
追跡者Q

バクテリアのようにトーキョー21にてのリアル生存サウンドで皆やっちょるよね。んで、そっちに鼻を利かせるサウンド追跡者シーンの成長も著しい(かもしれぬ)昨今、聞くモンに寸部の余裕も与えず銭がね−なら一人だまって聞けと言う理屈ではなぁ、やれるところはドンドン出て、ま、蕎麦屋の2Fでやら、同じヴィジョンをここに発見してOK感涙や! で、ドンドンMP3やらCDRやら高架下でやら、ただそれだけ。トーキョー21で屁理屈は死んで欲求なんだな。少数の批評家いなくなって多数の追跡者なんだな。銭は動かないのがネットの仁義。でもたまにはライブ来てちょ〜。

アンマシ長いんで途中キュー読みだが、100円ショップで志ん生売ってる時代よ。一歩進んでゼロ円音源なの。でもそっちの方がおもろいのゼヨ。OKならOKでネットは動くと、そーワイら島民も甘くはないぞぇ。ま、この状況が先におもろいY〜。よって当然それのサウンドがついていくね。著作権徴収札JASRAC印でケチもつきつつ,そっちはそっちでやってもらってもいいけど、とにかく、普通のヒトの方がプロより面白いと言うのがオイラの持論だが、路上で歌うなど、聞こうが聞くまいがオノレの実存だなぁ、ほんとにモー大変なんですから。



2003年10月30日(木)22時18分 離反勢力を内在させ場合によっては本来のテーマを解体させられちまう狂詩曲の公演
サブ理奈

諦めたドラムもこっちに寝返ってロールロールで、北海盆歌風のカラットだるい感じでフラット気味に引っ張る。これの緩やかな寝返りは利いたねぇ。結局そこから、オノレの性格にクサビを打ってだな、ワシゃぁ知っとるよ、他の楽曲維持団員どもがそれにいち早く反応出来なければ事態は継続しちまう。すなわち進行しやがる楽曲構造に準じて変容させていかねばならんので、反体制側は元の正規のバッキングに戻るかパートを終えるという掟じゃね。ここで総指揮者は、ってな感じでノリを即座にビビットカラーに引き戻す才覚には脱帽で、楽曲維持勢力が安全運行してる流れで優雅にパフォーマンスはまずは動くのだがな。ところが水面下でこの演目はワシら団員15名ほどが表層の基盤でありやがるジャズ風タンゴロマン狂詩曲第ABCの29で行くものの、団員に目まぐるしく出されて、やがて楽曲内解体作戦が動き出す第7498小節目あたりから総指揮者の暗号サインが、その内の数名ないしは全員が実は密かに潜伏の楽曲解体勢力であった場合、ドンドンハイテンポでアフロキューバン間違いなくそれになって、指揮系統より先じて現場対応の抑えを聞かせなくてはならない。一方、今度はジャズ風のニュアンスから浪曲気味のヴォイシングでララが行った瞬間5人ついて行ったな。あっと思う瞬間一気にテンポはダルダルに成って行く。

おい、そうでっち上げなくては事が進まんというフシダラ感覚ではおっても、まずいと思った体制側はそのハーモニーにカブっての切り込みが入った瞬間、実はマジでは勝手にやれんように9573×◎のパターンで結局楽曲内部に素直に戻るようになっておる旧ヴァージョンを仕切りなおして、基盤解体軍がキッパリ対等に暗躍できる21世紀バージョンなのが今日の演目だ。ようは、バッチリ転覆だった。ここでワシもやっぱり地が出て反体制に寝返ることに決意で、団員も総指揮者に表層第一幕での対峙姿勢を行ったりはしやがるものの先に述べた論理に準じてそれは1場面として終了し、楽曲基盤自体がそれを機能不能に出来るバグを露骨に残しておるのだな。何せだな、総指揮はニセ学長担当と抽選で決まり、言わずもがなここぞと言う場所で瞬時に数名の切込みをかけて、ニセ学長はこいつら反体制だったかとそろそろ気付くものの、河内音頭風へ行って、このようにだな、ヘレンもエレナもヘンリーもいやがるようでもありいないようでもあろうか。結局、ニセ学長もさすがだと思ったよ。タンバリンパートが見方サイドだと見抜いておってスパンと指示を出すや否やだ。すかさずOK待ってやがったぜとパーーン・パーーン・パン・パン・パ・ンパ・ン・ンッパ、曲の基盤構造は継続してくなー。いろいろ画策して、基盤維持側の団員はそいつに勝手一方させないように、ここまでほとんど真面目にコード進行やってきたが、基盤作成の主犯マッドサウンディスト(サディストじゃねーぞ)が作ったもんだからね。決ったメロディーラインとバッキングを数名のメンバーが指示されたが、チョイチョイとなるべく察知されないように、これまさにキラーショット!楽曲転覆の好機は一旦逃すものの、タンゴロマンはどうしやがる。

おっとな、今回のエントリーは楽曲維持軍に同調してやる所存の作戦ナンバー第947だ。結局ララも同じ穴のムジナだろー、そいつが例えばジャズ風タンゴロマンの絶対テーマに必要な唯一の楽器だったら使わざるを得ない。その状況下、楽曲崩壊を狙うメンツが段々脈絡分ってくると、そうでありやがる以上カレラはその間譜面ドーリにやるんだが、テメーらに都合がいいようにやっていいとか言うより、タンゴがアフロ感覚に捻じ曲げられやがて極東歌曲の風情に追い込んだあたりで、言わんけども。おっち、実に巧妙に別の勝手な旋律やハーモニーへ変容させられちまう可能性がありやがる訳よ。なるべく楽曲維持サイドに察知されないようにゆ〜くりとやるのが秘訣じゃね。おーとやっぱここちよく流れておると油断しやがると、ま、どうせワシらが入るとクラッシャーだろーと始めから性格見抜かれておる以上、こいつら反体制かと察知しその後この数名には表立った動きはさせたくは無いとは言っても、だから自分がFBIのスパイだということは最近まで誰にも話さなかった。



2003年10月29日(水)13時27分 或るシステムへの期待
ブラックナイト

計画された作曲物であったり,作曲物を準備しない即興ユニットによる実演でありやがる場合など様々な状況,その複数人員が関わる音響現場での統一的側面を保持しやがる為に要請される機能および可能性として,システムAまたはBまたはC等が,様々な規定をもって現れるものでありやがるんだが,そこに共通事項を見ることがおそらく出来る。個人の表現が上位の統一的で構造化された規定に連続することで,そこで与えられたシステム自体を常に存続させつつ,その内部で何らかの完結した全体構成を常に保持しやがることが出来るという有効な手法であり,あらゆる演目というものが一貫した構成体として完成されるものだという視点においては,ひとつの回答として意義を持つのでありやがる。中央管理型のシステム運営の可能性は解体型作曲システム○○やコンダクション-システム◎◎など形式を変えつつも,ありやがる種それがもたらす可能性と限界点の共通しやがる本質を明確にさせて20世紀ヴィジョンの典型たる財産として残され既にその世紀は幕を閉じた。システムと言うものが設計されるモノでありやがるために,どのようなシステムであっても,システムの中央統治的で上位規定的な存在的な性質を完全に消し去ることは出来ないが,今あらたに浮かんできたのが,運営しやがる現実のメンバーの動向においては正当にそれ自体の機能が停止してしまう可能性を含む上位ルールを内在しやがるシステムの設計でありやがる。

このシステムを用いやがる演目において,参加しやがる表現者はシステム自体を崩壊させる目的で参加しやがることが出来,それがシステムの規定を無視しやがることなく誰でもが行える可能性を持つ。システムを運営しやがる勢力は,このシステムの表層の顔でありやがる中央管理型ファンクションを維持しやがる動きを行うのに対して,最初からこうした第一層のシーンをクラッシュさせる意図で参加しやがるメンバーが潜んでいやがる。これらのメンバーは,演目が動き出す最初の流れでは,ほとんどシステム維持側の行動に準じ潜伏していやがるので,誰がそうした意図で行動していやがるかお互いに分らない。このハッカーたちはシステム管理側に察知されること無く地下的に連絡を取り合うことが出来,活動を組織化しやがることが出来る。システム管理側は本来のファンクション維持のために対抗措置をとることが出来るが,それはハッカー勢力とシステム維持勢力との力関係での相対的な能力として設定される。ハッカー側が上位ルールに含まれる手口で表層システムを機能停止にしやがる場合,全メンバーは独自の観点だけを頼りにこの事態に対応しやがることが要求される。この場合,システム維持勢力およびハッカー勢力およびシステム管理者の区別は解消される。で,とりあえずワシなんだが,このシステムを設計しやがるのはメンドーなんで,それは誰かが作った時にやるかもしれないとして,ワシらとしては,その表層システムとやらがクラッシュして何も無いことになった所からやるということで,結局いいかなーと。ハンナラ党入党しました。


2003年10月27日(月)4時6分 フリーの為の法則
カブライダー

否定形式の定義によって構成される理論を用いて肯定的な創造を行う。やっては成らないことの定義を行うのでこの規定を崩さない条件のもと大いにクリエイティブで在ってモライたい。要しやがるに完全なるフリーを目指すためにこれらは必要な拘束でありやがることを十分理解すべきだ。完全なるフリーに向かおうとしやがるゲー術家たちが何の規定も無くことを運ぼうとしやがる場合フリーになれない場合が多々ありやがるのでこれを未然に防ぐ為の規定なのでありやがる。この規定がありやがる限りフリーは誰にでも可能なのでありやがる。これをフリーを保障しやがる肯定的な否定システムと考えて欲しい。それでは始めましょう。トライアングルの名曲を教えてください。


2003年10月25日(土)12時36分 ハコと島民
Anti-Dethtributer

或る意味これってなぁ,電波ハコ屋が抱える深刻な最終事態でありながら,全く大組織ぐるみ国家規模で撒き散らされていやがる一連のストーリー群の笑えなさ度の高まりにみ合って、ワシこの視聴率買収のニュース聞いて朝から大爆笑で起きる。ようは,ハナっからだましのカナメのニッポン全島民がどんだけハコ屋のやってる何を崇拝しておるかの審判を下すあれ,視聴率ちゅうの?コレが最初にギャグそのものなんだというのは,島民の常識なんでそれはワシも知っとったのだが。なにせ全島民に対して600人だからな。この600人が何を見とるかで,何万人かは知らんけど,ハコ屋連中の運命は左右されとる。これって実にスリルなゲームなんだな。まあ,こんな理不尽なギャグがリアルにドスかざしてる場所で出来てる世界ちゅうのがハコの中の大国。これではやがるやがる全島民と幻の大国の遊離拡大増進は確実だ。国家的この事態はいずこへ向かうのか。で,そのニッポンTVによる視聴率買収の実態と言うんで,げ,ついにか!やっぱり誰もが思ってたとおりだったか,と耳を凝らしたのだが,その買収総数4名と言ってる。この人数聞いた瞬間、1パーセントの視聴率アップなんだよん,と中学生のヒロシに指摘された。かーっ,そうか,やられたわー。これ以上効率のいい買収なんて世界中どこを探したって絶対無いぞ。50人でも買収に成功した暁には蔵が立つ!ヒロシ教えてくれてありがとね。もし600人の内の6人をゲットしたら、バカかよ!とまたも叫んだワシだったが,バカはワシだった。おっちゃんよく考えてな、それをやってる総体での上位レベルで表現される体当たりのスーパーギャグのスパーショットで、ジャンキーのランディーだじょ。


2003年10月25日(土)0時14分 鉄橋
義太夫

もう、軟弱にも帰路に直結しやがる遠い光のブロックを視野の片隅に残しながら、なんとか。水面はぼんやりと明るく滑っていけそうなくらい静かだ。ガゴーーーンと電車が川を渡っていやがる。勿論それは鉄橋の上を通過しやがる以上のロマンは無い。やがてその鉄橋を今度はワシがくぐって、カッコだけの旅人に成り下がった。ユックリ行く。ジョギングの係長やイヌを連れた母親などが、しかも意味の無い遠出の先で溺れたくなどは無い。それが起こるとすれば、どこまでも向かうべきか。或いは、過激に過去の判断を拒絶し、今より以前は振り返るまいよ。ずっとワシは川べりを来ただけだと思えまいか、察しが着いてしまうので、つまらぬ事に市街地に出る街道に繋がってしまった。もっと、帰って寝るべきかなぁなどと、迷い込む可能性の大きな方へ迷わず進む元来の即興者スピリッツで、それからさらに進むと、まともな審判員がワシの頭に戻ってきて、暗闇からふっと現れるので実に、だいたいそれが何鉄道なのか、暗くなっても今日は暖かいな。フシダラ自転車即興放浪で何処だか知らん川べりに着いた。土手をずっと川沿いに行くしかない。夜なので土手は暗く、チャリのライトなんかなんも役に立たない。こけたら川の方に転げ落ちるなんてことは絶対無いとは言えない。こんなところで、注意深くユックリと行く。ずっと遠くに地上鉄道の鉄橋がありやがる。ここまでの走行経路を判断してしまうと、よほどの最悪が重なってだがな。ということなんで、雑民都市の市民ケンです。


2003年10月22日(水)23時6分 ネット生活
リリー

手紙を出したが帰ってこないのでメールを出しやがったぜ、ロッケンロール。 サユリはしばらく留守だったといって、内容をイマイチつかんでないので明日返事を書くという内容のメールの返事が来た。メールどうもヨンキューと言うために即座にサユリに電話しやがったぜ、ロッケンロール。 28回コールしても出ないので諦めた。しやがると、またサユリからメールが来て今ファイティング原田の秘蔵映像をやってるので出れなくてゴメンとあった。そうかと思い、特にファンではないがその番組を見ようと幾つかのチャンネルを回すと第498チャンネルでそれはやっていた。それは直に終わってベーブルースのインタヴューに切り替わったのでしばらく見入っていやがると、ドンドンとドアを叩くものが居てそれはサユリだった。番組が終わったので29階から46階まで駆け下りて来たのよといって息をゼーゼーやっていやがる。二人で部屋に戻ると今度は宇宙飛行士になるための24か条というのをやっていた。手紙は昨日見てさっき読んだのだが、雑民町の市民KENです。


2003年10月22日(水)22時48分 全方位球体パースペクト
ダークマター

俺サマの中の不可解領域に眼を当てると、それを教えられたあの日からの真実が在るがゆえに、ぶつかり合うことなく世界がひとつの景色になってダイアモンドのようになる。みんなも見ていやがるその場所が同じで、俺サマの世界であっても俺サマはそれを許すだろうね。ただ俺サマが思っていやがることを変える事は出来ないだけだ。平等とフシダラ、何一つ解からないことばかりがおこるだろう。だから外部が必要なんだよ。何処までも遠く広く行けない場所も在る。だけど誰かが全てを教えにやってくる。世界がありやがるということをネ。だからそれが俺サマの世界なのさ。だって俺サマはそれを見ることが出来る。その能力において。美しい光景なら誰も怒りはしないしかまわない。それは好まれるものだから在るべきものだ。醜い光景は無いことにしやがる。だって在ることの全部を見てるわけじゃねー。誰だって同じことを思うだろう。そうして、族に入ろうピンポンパン。



2003年10月22日(水)19時17分 笑いの生産体制
隅田川一風

最早TVで国民をマジで笑わせられる者が現われる確立は激減で,権威ありやがるギャグマンほどまったく厳しく,限りなく素人に近い方に放物線のヤマがありやがる。権威ありやがるギャグマンの20世紀の栄光もまったく色あせていやがる。さすがに同じ脚本を百万回読み直した絶望感がにじみ出すぎて,そのリアル以上の荒唐無稽感覚をまとい,オノレをきらめかせるのは,人間業ではなかろうよなぁ。実にそこには個たる人間存在の実体感そのものが撒き散らされておる。そんな笑いに生きる者の苦闘というものがハコの中にはいつでもありやがるな。で,その涙ぐましさもまた,ついつい,結局行き着くいつもの場所があって,要しやがるに,如何に一般概念のまっとうさに対してズレてる人材,すなわち社会機構の周辺にありやがるストレンジャーの介在によって社会内部の硬直に亀裂をもたらすという,70年代カトちゃんに代表されるところの古典技法なのだが。コンビニでのコントをやってたので見た。レジでつり銭をもらう時のバイトの行動を独自路線でLOVEと断定暴走し自己の認識主体と世界との完全一致を疑うことの無い人間のおかしさを狙ったと思われるものだが,普通に考えて単にリアルで恐ろしい。こうした人間の思考法は最早一般勢力の分派なので特別の笑えるインパクトは無い。一般国民の自覚としては,こうした思考を持つ人格による様々な社会問題の増大への対策,およびそれをもたらした情報公害の問題についての追求こそに重きがありやがるのだ。まあ,もしギャグがありやがるとしやがるとこのあたりを越えての二重のブラックユーモアということなのだろうか?それだとしても,それじゃあまりに深すぎて付いて行く来にもならんなぁ。このコンビニギャグの汗がでるところというかな,見ていてありやがる種の微弱な戦慄というか,それについてだが。要しやがるに笑えないのは,演じていやがる者が演じられるキャラクターと異なるということで,お茶の間は自分達がちゃんと社会の暖かいエリアにいやがるんだなと再認識もしながら,その上で権威的な機構を罵りながら笑うところなのだが,このように演じるものも演じられた狂気と同様の現場にありやがることをキッパリと露呈させておるのでは,むしろそうした現代独自の恐怖感を,お茶の間に直で主張し届けようとしておるんじゃねーのかという写実主義で,その絶望感覚があまりにいたましい。或いはそこには絶対的な権力体制の中での笑いの強要,利潤最優先の生産体制に乗ってそれを行い続ける者が陥る失速感覚が在る様にも思われた。笑えぬイヌの哲学をまた見たけどなー。芸術家の斧ヨーコです。


2003年10月22日(水)16時5分 ニ分割される領域と言ってもだな,関係ない連中がおる場合も。
TV追跡者QQQ

円環を成して,演ずる連中と聞く連中が結局同じになる音楽の場についての考察を行ったものの,それでは現状都市部荒野にての部会形式が,演ずる連中と聞く連中の直線分割に,一義的な領域設定によってありやがることが,どのような肯定的意義を持ちえるのかに関して,いずれ方針が問われるかも知れぬが,今はようわからん。だが考えさせられたな。明け方午前3時に見たその歌バンの実態映像はそれに関してあまりにも興味深かったのだ。ようは,最早こうした島の文化と言ってもだよ,国家戦略の統一的な形式化の波を全く拒絶して立ち得ることも困難な現在があろうし,演奏者らもハコでの直線分割の謡形式を基本にして立っておるのであって,しかもこれTV録画なんだからな,その最たる状況の中とりおこなわれておるのだと安易に考えた今回普通視聴者のワシだったのだ。

ま,そのTV路線での客席の現代的都会的一般聴衆的娯楽享受的境界線のリアリティーを疑う者はおらんだろうとボケ−っと見ていたということだが,そうは終わらん事態をカメラは最後に捉えた。ゆったりと空間の揺れと成りまた女の声でもあって美しく特に虚飾無き姿で現れ去っていくハーモナイズがあって,或いは次の演目ではハイドハイドと激しくビートしやがる歌いで揺さぶり,今度はさっきの女の声に寄せたかにも思えつつゆったりと流れる男の節回しになってヨンシンもダャォゥーン.リャウォーンと声と鳴り物での相互ノリ合いで空間が滑らかに立体的に満ちてくる、しやがるとだな。一人二人と三人四人と,演台の前をうごめく影を捉える午前3時30分のワシ。ゆったりと満ちる音のノリを泳ぐようにヤッテルがこれは踊りだ。演台は勿論一段高くなっておるんでまさに絶対の境界線になっちょる。しかしこの境界線と客席最前列のやむを得ない若干のスペースをやがてスクォッターしちまいやがった踊りの一団はそれまで明確だった境界領域を軟化させその周辺に本来の謡の本質が在るべき場所を取り戻してしまった。勿論これはやむにやまれず客席からやって来た聞く側で招かれた連中なんで,ふつーにおばちゃんとオヤジ連中が中心で細部統一なんかどうでもいいフシダラなインプロヴィゼーションそのもの。やがて,手ぬぐいでハチマキ決めるものまで在る始末。んー,この人ら最後一曲にかける執念だなー。ようは,直線で分割された2領域といっても,実は巨大な円環のたまたま分断された或る一箇所に過ぎず,何ら円環の謡の場での振る舞いを拒むものではなかろーと連中は即座に見抜いた。その知性,涙が出るくらい素晴らしかったゼ。ほんとにモー大変なんですから。



2003年10月22日(水)13時25分 音楽の場に関わる分割線と円環について
追跡体験者Q

演台に登る者と演台に眼と耳を向ける者,そしてそいつらがとりおこなう部会というものがありやがる。その時,演台に登るとなればそれはそれなりに,人間存在と世界との関係においての,他者に対して示すオノレの立地点に関わる見解がありやがるわけで,それは表現そのものにビッタリとまとわって伝達される。その際,その主義主張表現の内に在る立地は,表現を行う世界内存在者であり,且つ個という世界に対峙しやがる境界線の内側でありやがる認識主体,すなわち[ワタクシ]なるものが,具体的な表現に関わる技法を用いやがるのにおいて,そうした[ワタクシ]なる存在者と世界の間に介在しやがる幾つかの見えないベールを全て放棄して[ワタクシ]が意図し主張しやがる完全なる表現そのものの本質だけに近づく強い欲求がありやがるにも関わらず,それを困難というを上回って不可能だと思う認識が一般化してはいやがる。その一方,逆にそうした伝達技法自体が常に含む欺瞞的な性質を拒むものではなく,表現に伴う可能性の要因だと捉えつつ,その際表れ世界に表出していくだろうところの主体をもってこそ[ワタクシ]なるものが現れ得るのだという観点から,むしろ積極的にその機能を押し広げるもので,結果主体の曖昧模糊とした現状を顕わにしようとしやがるスタンスが特に斬新な理論とはいえない。この件に関しての明確な言及を今のところは迫られていないワシなので,結局ここでも安易な説明的二分法で語って見たように,そんな線に行きやすく,これに近似しやがる解説主義からはずれていられる現状をシメシメとしておるところ。しかし、すみれセプテンバーラブ歌おう。

演台に関しての最初の二分法を持たない音楽が最初にあったことは確かで,それを思うとき上記の観点など或るローカルな視点に過ぎないことにワシは気付く。すなわちそれは一本の境界線を用いて演台の上と向うを表すといった単純二分法の装置ではなく,円環を形成しながら音響が起こりビートが起こる場所が一体的に拡張していく物理的条件から非空間的で非時間的に移行した場所を形成しやがる音楽のことでありやがる。丘の上に段々と円が形成され弾み奏でる一団が現れる。人々が徐々に現れ円に加わっては疲れた者ははずれまた誰かが加わっていく。或る時は淡々と進んでいやがるが,流れが導くヤマでは躍動の臨海を皆が意識していやがる。そしてカタストロフは常に回避されゆっくりと下がって行き,またやがて上がっていく。幾つかのこうした繰り返しによって拡張した空間,その周縁をたどって放物線が閉じた揺らぎのように人々が演じ歌っていやがる。一体の音楽があり演ずるものと聞くものは同じ者なのだ。その時この放物線が揺らぐ円環の内側には,さらに特別な領域が在ることに誰もが気付く。それは[ワタクシ]への二分法で解説しやがるような性質の何かなどではないのだな。で、その夜は大分蚊に刺された。しかし,めげずに夏の一夜をワシも加わってみた三丁目の公園での思い出だが,それにしてもだ。砂場の横に破れたちょうちんが一個もう2ヶ月もおっぽってありやがるのを通るたびに見かけるワシの11月に成ろうとしやがる淡々とした日常なのだが。


2003年10月22日(水)5時10分 島の歌を聞いて眼がさめた。
短調界

あまりにそうなり過ぎないように上手く皆で引っ張り合っていやがる。それは音楽でやれる放物線の端と端がやがて繋がってできた揺れる円環ようなもの。それがゆっくり回って浮いていやがる。眼をあけるより先に耳が脳に繋がって目覚める。そうかこのようにやはり野生がありやがるオレの身体にもと解かる、また、また違うところかと解かったとは言え、それよりも緩やかに放物線の印象があって独特とは思ったので、何人かが歌っていてゆったりと高くなり低くなり、生き物が目覚めるということだったかと知る。聞こえる音楽は東北の端っこの裏ローランド王国の民謡のような気がしたが、電気全部付けっぱなしの部屋でなぁ。周りに空間が広がって全体で何が起こっていやがるかまずは知るというのが、知らないうちに疲れていたのか夕方寝たら夜中に曖昧に眼がさめた。三味線が聞こえ、民謡だって全部が古いモンではないから、それ以上のノリの本質に重大な秘密がありやがる方が面白いのだが。ずっと南の島の歌だと説明が入ってる。午前3時の夜中の番組。影響しあってるのもありやがるかもしれないが、しかしこれらは実はよく似てるところもありやがる。まあ、みんなにうたってやってくれ。


2003年10月22日(水)4時36分 赤いマシーン
yellow-car

マア、アタックのコツがもう解からないのでギリギリそこまで神経を研ぎ澄ませなくなってんだな15年後のオレ。帰って寝た。何て心やさしいのこれ。で、この間にまったく忘れておった上に、ロードキングス。暁か夕日か解からんけどオレンジと赤と若干のイエローで描かれるオレラの都会とは異なる存在しやがるかしないか解からないし、人間誰しも能動過剰の方向へ心理状態が移ろうものだが、操作開始の出迎えフレーズはいいとして、そこを踏みとどまってゆっくりやらねばならん。自然と事が展開しやがるのを待っておればよいのだ。そのように作られておるマシーンだった。やみくもに、何がジャックポットかよう解からんが大した感動も無い出来事しか起こらないままそれを繰り返して見る。で、利潤絶対の仁義だけの戦いの中、厳しくオレラを谷底へ突き落とす鋼鉄の巨人ってほどの出来事は無い。瞬間ブラックナイトが脳裏をよぎる。それにくらべりゃ、ここに留まり安住できない以上、とにかくこの2つのBOXと4本の脚に構成されたところの限定された操作ボタンしかないマシーンに向かった。真紅のマシーン、とうとう2個落としてまた元のリフにサウンドは戻どる。そんな繰り返しなんだ。まあ、感情的に成り易い体質を抑えて、結論から言うと出来事性の極めて少ないマシーンということだが、誰しも納得の世紀末の展開と思っておったマシーンの運命に関しやがる一般思考のオレだったので、暴走野郎にしちゃーキチンと美しくも在りつつ、当たり前だがな。となればだ、これはサウンドを聞く事を最大に考えたマシーンとも思えるゆったり対戦型。80年代後期としては全くのシンプル路線だろ。そうは言っても、存在出来る立地も無さそうだな最早と、しかるべきミッションを幾つかはこなして行かないと準備されたサビのところに行けないサダメ、DE7簡易版を内蔵しやがる真っ赤なマシーンの中から、70年代最初期のマシーンへの回帰を明確に狙っておって、15年ぐらいなるのか、そこに80年代のアイディンティテーを巧妙に残存潜り込ませたマシーンなんじゃねーのかと。バンザイランとかとは違う線だ。昔はこの線のアバンギャルドについては把握できなかったね。単に時期が古いんだと思っていただけのオレ。何だかんだで、しかも躍動心理くすぐるメロディーだが、それ以外は普通の暴走ライダーだが。実際は上品なフィールドで、恐らくはこれ基本は錯綜の80年代から、どっちでもいい言うなれば構成的な都会というもの。メットからのレーザービームは何なんだろ。ま、泣ける音響磁場を何時までも引き出していたい江戸川区の整備場3Fだがな。意外と左右のアウトで引っ張られるが、それが長いというべきか短いというべきか何ら基準ちゅうもんなど無いのだが、ゆったり落ち着いてやる設計になっちょる。思い出したが、そこが優れていやがるというか、グリーンのどこでもロックしていく。サビに入ったら入ったで、アニキと幾つかの相談事項、よろしく。


2003年10月21日(火)0時41分 市場の男
ニセ追跡者

その何屋かは知らんが店の柱に背中でもたれ崩れた男が奏でていやがるその音楽だけを聞いていやがる者などおらんのに違いなかろう。それは満たされていく市場の音と繋がって男のなにやら悲しげに人間くさい奏で方というのか,或いはただのうなだれ方といってもいいような姿,へなたれ,ドカと地べたに落ちた腰の上にたまたまヨンシンの胴がおさまり,その為に音楽となるかの音の探りをしやがるような仕種。そのフシを聞いたわけはないオイラだが,それは忘れられない音楽となった。時より雑踏の音響の中にその男がやるようなものを聞きに行く。それはいつでも聞く主体をとぎすます時にそこにありやがるというだけのモンだ。一冊の写真雑誌をあのボート小屋の奥でオイラは覗き見たのではないのかとそんな記憶が一瞬だけよぎる。朝の市場雑踏、小さな島の市場の午前の光景に在るひとつの音楽を知ってるのに、多分オイラはそこに行ったことが無いだろう。旅の手帖を大事にしてきたオイラの20年間の史実の上に記されていないその記憶は、何屋か知らないが人間というものが生活しやがるのにこれ以上のもんがなくても困らん場所だが、いったい何からもたらされたのかと記憶をたどると、その島がどこだかわからないばかりか、虹色のアキラに誉められた。


2003年10月20日(月)22時37分 鉄塔の近くの都市部荒野
太陽の船

ヤツがよくやる,戦没した飛行隊が現在首都を空爆しやがる映像,言語と人間の声が生み出す,存在しないにもかかわらず存在しやがるかの如きシネマのような何か,その断片のようなシーンは,それが突きつけるところの裏切り者としてのワシら人民の総体,トーキョー21世紀に,生(ナマ)でありやがる以上どうしようもないワシら人民の正直な耳に住み着いて持続してしまってくだろーな,チキショー。それが証拠に,やってないのに,やった曲より気になってるワシではないか。マ,いっしょに演台にいてオレも追跡行動をやってるという訳さネ。それはそれなんだが、全三幕全てが言論活動が関わっての実験が行われたが,今振り返ってみてもあれは面白かった。とにかくスキンヘッド店長がその日歌わなかったとは言え、こないだの高架下オブジェルームでの表現主義会合での事態は、その日の帰りにどうも偽りの商社ニセ会長の手口か,ワシの変容装置の収納の中にCDが密かにねじ込まれていたらしく,心当たりなきサウンド領域とは言え,マっ聞いてやったんだが。

どうも重苦しそうにやる者はそうなるはずの手法なのにそうならないのがこの場合の要点らしく,こりゃーやはりメジャー語りベ文学系バンドの亜流かいと最初聞いておると,なにやら,勢いの創造に取り組む音楽ステーションTVで主流の日米抽象言語表現派の歌い口ではと思い,やがてそうこう聞いておったが,ついにはこのウタ歌いの立地は,やってる表現のいったいどこにありやがるのかだんだん解からなくなってしまったワシなのだ。どうもこのCDを潜ませたヤツの意図は,ワシをこの困惑に導き,これもまたTOKYO21の奇妙な迷路の実体なのだとでも言いたいのかと,ふと考えすぎてしまったがな。70年代ハコ文明メディア戦略の最終完成体の如くに表層のカビのように共存することで,その内側にいずれ到達しやがるべく真の実態がありやがるかに思いあい納得しあえるニセの浄土思想,近づくように見えて僅かに遠のく方が優先しやがる脱帽のトリックは,受けるもののためにまかなわれていやがる。この時間差と空間差を用いやがる新興宗教と一致しやがるものを国家体制の維持機能の主要一部に安住しやがるゲー術のようなもの。まさにそのようなものの中核近郊にありながら,その表層の絶望感を暴露しつつ,同時に表層にいやがるこのウタ歌いの明確な浮遊感覚,それが明確でありやがるゆえについには聞くものに亡霊のような実体感としてあらわになるサウンドがコレだとすれば,これもまた都市部荒野の個別の抗争のひとつなのだろうか。とか思いつつCDの写真を見ると,傷だらけになって青春を生きた1970年代というものと同じで,所詮今はハコの中の無限の広がりの遠くのように見える景色の一枚でギターを弾けない男が弾いてるように描かれていやがるショット。まあ,それにしてもTOKYO21での追跡者どものやる事はアートマップ学術路線よりはるかにテメーの鼻でやっちょるよなぁ。おそれ入谷下にて一句。擦り込まれたドクターがアーケードのヒーローに向かって歌うクチナシの花。


2003年10月18日(土)23時19分 批評を批評しやがるアートの可能性 ノンクリティック或いは追跡者ども
ガラの調査者団

主に電脳網に展開しやがる芸術に関わっての批評作品が在る。これを対象にしたテキストアート(実質はメタクリティックと言うべきだが)なるものを発信しやがる[ノンクリチカ21]の理念が伝わってきたのだが,これは実にユニークな反逆精神と言えようものだ。どうも,奴ら組織の言い分だと,前世紀版の既存メディアを経由しやがる批評活動が,生産性絶対主義の旗(国家的気運)のもと,既にサブカル+マスカル万全の分野支配の限りなく完結に近い状況を成し遂げた世紀末,その体制を通過しやがるより術のなかった批評なるものに対しやがる信頼が全国民的に失われて既に久しい。この前世紀型の芸術批評の体制が意義を成さなくなった事に伴なう,もうひとつの出来事を多くの国民は理解していやがるのだが。要しやがるに前世紀メディア体制の文化的意義の壊死とこれと並行しやがる電脳網配信の人民レベルでのテクニカルな可能性に立脚して,新たなる批評が生まれ開放され進行しやがるであろうとの多くの国民は理解していやがるということだが。

ここTOKYO21にて,あらゆる電脳人民は,カレらが欲した場合に即座に保障される,批評対象選択のフシダラと,カレらが用いやがる論理選択のフシダラなどに関して,生産主義体制が介在しやがることで受け入れねばならない一連の拘束から開放されたと言うことはとりあえず誤認ではないとしよう。すなわち,ここでの新たな批評活動,すなわち再生クリティックは,生産性と利潤追求の絶対性における拘束からついに逃れられず正当な活動が不可能となり終焉を迎えた前世紀の体制を越えて出現しやがる批評として在ると一方で定義されており,既にあらゆる対象を求めて実践されていやがるのでありやがる。しかし,[ノンクリチカ21]においての認識は,この認識にさらに対峙した内容なのでありやがる。つまり,こうした状況が成立したために,前世紀型の批評が自明とし疑われることの無かった立脚点も消失したという認識が欠如してはならないと連中は指摘しやがる。それは,すなわち批評が持つ客観性に関しやがる神話の崩壊でありやがる。勿論この神話を保障していたものは前世紀型メディアの利潤指向をかろうじて超え得て確保された文化と呼ばれる領域なのであれば,それが壊死した以上同時に神話は死に絶えたと理解しなくてはならないのだ。よって,そこに新たに出現しやがるものを前世紀型を越えたネオクリティックと捉え,その拡大成長を信じることは愚かだというのだ。すなわち,前世紀に在ったものをクリティックと定義しやがるとすれば,新たに生まれたものは,クリティックを拒否しやがる何かと考えなくてはならないという。それをひとまず連中はノンクリティックと呼び,或いはテキストアートとして提示しやがるのでありやがる。

[ノンクリチカ21]にとってのテキストアートとは,勿論前世紀の文学作品の系列をいうのではなく(一般にいう文字造形とも異なって),実は実質クリティックだと言ってよい。ただ,それがユニークなのは,最初に述べたようにTOKYO21においての再生クリティック路線の二重構造における不条理性,すなわち再生クリティックが結局立脚すべき独自の地平を何ら見い出せないままに,結局のところは20世紀のアートマップを相変わらず珍重しやがる現状を批判しやがる活動なのだ。そして,連中はこうした21世紀の都市部の特殊性にしか本来は立脚できないはずのクリティック,そのためにクリティックとしては実は在り得ないはずのテキストについて,それらが対象として批評しやがるアートや音楽ありやがるいはBBSやネット上にありやがるあらゆる言論活動を,それらクリティックが対象としやがる芸術行為と同等のものとみなす。すなわち,こうした再生クリティックが一時的に在りえるとしても,それは実はやがて書く主体の主観性にしか立脚できないという運命を理解しやがるしかない。その結果カレらはクリティックの消失を理解せざるを得ないのだという。21世紀都市部荒野においては主観そのものでありやがる存在者とその表現しか存在しない。批評とその対象を分離しやがる定義はここで失われる。全ての記されたものが同じ地平にしかないことが露呈しやがるというわけだ。[ノンクリチカ21]は前世紀に批評家と呼ばれたものにあてはまる都市部荒野21においての概念は,追跡者なのだという。この件に関してはまた書くかも知れぬな。これからは偽りの商社で活躍します。


2003年10月18日(土)1時16分 裸体の記憶
偽りの表現主義者

いくつもの曲線をその裸体の表面にワタシは探せるだろう。立ち上がると左右対称の姿をしやがることが出来る女の姿に,その対称なる調和の1ページで終わる手紙に僅かなゆがみを加えてやったら,垂直の硬直への侮蔑と言いながらそれに支配されるがままの返事をやがて読むことになった。それをかつて容認したワタシだったけど。それからワタシは女に横たわることを頼み,それにしたがってそうした女の裸体についての幾つかの視線が統合されるものが一対の眼でありやがる場合,加えてそれを見る意識でありやがる者がワタシでありやがることを知った時,ワタシと女は室内にいた。寒い日に女は裸体にならねばならぬのでワタシはストーブに火をつけてやった。やがて,ワタシの言ったとおりに横たわった女の形態は垂直の芯を抜いて流動であり風景のようなまた水が流れる場所を思わせるような形態,立ち上がったときよりもずっとそれは大きく感じられる。これはあらゆる裸体の本質かもしれないが。緩やかな線と見えるものがたわみながら流れるところがありやがると,その反対側には緊張した弧の流れがあって,それらは対になってるが,それだけでなくその女の表すものが風景だと思うものには空間的なひとつの振動のようなものでもあって,どこまでも表面が迷路になった複合体と言ってもよい。すなわち,線だといっても大きな曲面が閉じてくるまれたもので,表面がどこまでも繰り返し連鎖しやがる変則螺旋のようになってると気付く。それは点を移動させて線を捉える場合ならば眼の通常の機能が優先されるであろうが,この場合眼を使いながらも,曲面を探るように,要しやがるに手のひら自体の曲面を変化させながら対象の曲面にあわせて変化させつつ形を探る場合の動き,それを眼の使い方に当てはめることで初めてその姿態を理解しやがることが出来よう。女が現実的に見せる姿のおおよそはワタシが言ったとしても,真実が隠されていやがる魅惑の本質はその姿を演じる人物でありやがるその裸体だけが支配しやがる物語でありやがることを否定しやがることは難しい。なぜなら,たとえ百万頁の手引書を女に与えワタシの偽りの願いがもしあったとして,無いが,それを命じても女は自分の裸体の可能性だけに忠実に姿を結局見せるに過ぎない。その意味で裸体のあり方に誰もが個別のシネマを見ることも出来る。そして,どうやっても得ることが難しい永久変則螺旋の表面に関わって,視線を使うことで得られるものは,無限に引くことができ,またそうしやがるしかないワタシの眼と手の連携であって,本来は際限なく繰り返されるしかない旅でありやがる。それをはじめる。先に風景のようにありやがる姿態に,手のひらのように使う眼球と意識があり,それがワタシでありやがる時,ワタシの外部へ繋がる末端が今度は実際の腕であってそこに捉えられた外部側のワタシに最も近いものが一本の鉛筆であり,限られた白い平面の中を捉えた裸体の形態に限りなく対応しやがるための曲線の連鎖を行う。幾つかの線はまとまり抑揚を得て,消されていくものもありやがる。ワタシと女はお互いの労働にやがて疲れて今日はやめる。いつまでもそれは完成しない仕事なのだが。みんなにうたってやってくれ。



2003年10月17日(金)22時18分 降り積もる音の網と線をくぐったりしやがる踊り
追跡者Q

オレはミラーボールがひとつだけなのに,反射の光のタマの連鎖が二層ありやがるのは何でじゃろと考察し光源が二つ在るからだと気付いたが,その後なぜ約60度の角度でその二層が交差していて,しかも周期的に幾つかの光のタマが正確に重なるのかが解からなかった。いずれ,何とか理解したい課題を背負ったまま,ミラーボールの光のシャワーは消えて,演台に3人がいやがるのだったが,一人は曲線に秘密が在る黒い光沢の台を使い,幾つかの円盤と円柱を操る者がまたいた。もう一人は半裸で存在し何を操るのだろう,そのようにきっとオレの26人隣の席に座っていやがる看護婦は思ってるに違いないと思ってたオレがいた。幾つかの静かな動きは極東の武道の型でありやがるかとイメージしたが直に打ち消す動きがあって,動きと共にオレのイメージも変容していく。やがて二種類の装置は二人の男に操作されていた。ぱらん・ぱろーん・ぱらん・ぱらんぱらん,と黒い装置を操って鳴らすものがいて,美しい音の粒のつながりが流れるようであって単純な線をつくっていやがるが、でかくも小さくも無いホールと言うのが在って意外といいなと思って待っておったが意外と時間通りに始まるその日だった。始まるとミラーボールが恐らく止まるが、それはしばらくの間は,のんびりとおっとりして,気づかぬうちにやや早くなっていって,どんどん早くなるのかと思うとゆっくりなったりとまったり始まったりしやがる。それでも,それがひとつの線のようだという印象をオレは棄てきれないでいた。で,円盤と円柱は基本的に最も単純な操作をしやがるために在ったことが音の性質で解かった。ぷぁーん・つぅおーーぉん・ぅおぅうぉおぉーーーぉん,てなように,その装置群のいかついビジュアルよりはずっとやさしい音の網がこれまたゆっくりと演台の床をはって黒い装置の音をすくい上げてしまったり,しまわなかったりしやがる。音の網を暖色とイメージしやがると音の線はいつも変化してる原色の幾つかとやや彩度が下げられた暖かなピンクをも含む色彩群に,ただ冷たい青だけが見つけられなかったオレ。それは大きくはひとつの場所で奏でられ,その全体の内側では二つの場所で奏でられていた。そうした音の二重の空間の状態の内側を,止まったり,移動したり,くぐったりして音の網と線を揺らして歩く男の存在に時々気付く。男はゆっくり気付かれないように移動していやがるような動きをしやがるのだが,ホール空間を現れては下へと降りていく二人の生み出す音の複雑すぎない色と形の層を,静かに体の色々な箇所や全身で拾いうけては,揺らしたり,ずらしたり,めくったりして移動していくが,気体のように在る身体だと思ったので,それを集中的には見ないでいたが,やがて俺の前をふーーっと時速50メートル程度でその存在感が通過して左に視界から切れた。通過したとき確かに肉体があって,今日がその男だけ装置を用いない会でありやがる意味を知った。ドクゥン・ドクゥン・ドクゥン,と鼓動が聞こえた訳ではないのだろうが,そのような印象がぬぐえないので,そうであっても別にかまわないけど。ただ、9月に旅立ったラブを歌おうかなって。

(パート2)
てな感じになって,片手で午後の紅茶ペットボトルかなんかを飲んでは,外したキャップを操る装置の1センチぐらいの幅の在る箇所において,また飲んでキャップを閉めたが,ぽ・ぽーーーーぽん,てな感じで実際は点のような音は大きく流れを知ってしまったオレの意識はどうしても線のように聞いてしまうんだな。単純だといってもそれは奇術だ。そして,ゆっくりとスパイラルのような形が起こって,登っていくのだが,一度も下降してないのに限られた音域を非常に長い間登り続けていやがるのは,移動せずに歩いてるように見せるパントマイムの技のようでも在り,それが螺旋なのでハンスのバラ色の裸体画のようでもあったと記憶していやがる。また或る時は,激しく網が塊のように変容した円柱の主体性に線を巻きつけるような動きで二つが強くジャズの印象になって鳴り響いた時は,それはジャズなのだとオレは思ったが,26席となりの看護婦はどう思ったかは知らない。ピアニストはそれからまた静かなゆっくりとした線が好きらしくそこに戻りたがってそうなるとぽーーーんと引いた後,その音が終わりそうになる頃,次の音でその音を軽く押して,ぽーーーーん,と向うにやってからまた音をぽーーんとやるが,これも単純なのだが,これも実際はそこまでゆっくりではないかもしれないものの,そんな印象のマジック。男は老人なのに旅をしてきた。立ち上がるとにこやかに笑って会場に挨拶をしやがったぜ。ロッケンロール 3人が下がった後ピアノと円盤と円柱は残されてミラーボールがまたつけられたので,はじまる前の疑問を帰るまでになんとかケリをつけたいと思った。なぜ周期的にふたつの光のタマが完全に一致しやがるのだろうか。

円盤と円柱で生み出される音響の網目はまろやかできめが細かく,揺らぐ広い曲面のように現れて維持されて降りていく。ただ,単純な最も人間的な操作は時々強いささくれた立体の状態へ結びつき,黒い装置の線の揺らぎと思っていた音は,やがて新体操のあのリボンの立体ウェーブになっていても,それが線でありやがることに変わりなく,やはり二つの装置は二人の人物によって関連していやがるのでなければそうはならない。始まってから聞いていやがる現在までの時間は終わる時間に向かって常に長くなるのだが,その間中ひとつの線だと形容していやがるそれに対して,それ以外の印象を持たなかった。それに対して,音の網だと形容したそれは,時々立体的な印象を与えて,その時に線はかき消されて見えなくなっていたりしやがるが,立体が網に戻った時,線はその間も連続した流れを維持していたように立体の中からぬけだして来る。そして,また網と線のからまりと遊離とのやや不可解な何らかの関係。黒い装置はピアノだが似ていても違うと言うこともありやがるだろうか。まずないのだが。鍵盤の前でどんどんゆっくり引いていくとやがてたった一本の指が,ぽん・ぽ・ぽ・−−−ん・ぽ・・・んんんp、ほんとにフシダラな変容が起こっては消えてなぁ。


2003年10月17日(金)4時56分 ダンス
偽りのララ

目覚めると予報に反して晴れていたので今日も新宿にやって来た。南口鉄塔録音前雑踏に我在りて,都市生活劇場のこの演舞場にただの独り立っていやがるワタシという女優の実存。そして,そうだと意図しやがる時女優で在るワタシを成り立たせるワタシの選んだあり方こそ女優なのでありやがる。そのワタシの選び勝ち取ったフシダラにおいてワタシは女優となりえる。泣く女とは演じられるものでしかないのは,ワタシは泣かない女と人から言われていやがることを知れば当然だが、ゆっくり車はカーブしたので,見えなくなった。今日はそんな見たことの無いダンスを,もっともっとゆっくり踊ってみようか。

実際泣いたことが無い。アメリカ人の演奏家達と踊った帰り暗いバーの奥で韓国南部の音楽がミシシッピー川べりの土色のブルーよりも,へし曲がって泣けるものだと聞いてから,そのようなこともやってみて,そして泣いた。その日の帰りワタシらと関係のない男がいつのまにかいて,あんたらの話は分らんというので,てっきり,韓国民謡研究の大家が,イイカゲンな南部イメージをたしなめてきたかと思ったが違って,その老人は80歳でありただ孤独なだけなのだと判った。それから,ホントは話したいことがあったけど,老人の言い分を聞いてやった,学級長と英文学者とパンソリ研究者と回転摩擦電気物理学者らの一団も帰っていった。バーの前で別れを老人に言う義理も無かったけどそれをしてからワタシも去った。少し歩いてから一度だけ振り返ると老人は両手を真っ直ぐハノ字に伸ばしてダダをこねるように身体をゆらしていた。あまりに奇妙な動きだったが,それを見ていやがるのはワタシ一人。その光景は乗った車の窓からも見えた。それをずっとやっていやがるのだから,老人はダンスを踊っていたのだとやっと分った時、反レ・隊に入隊した。


2003年10月15日(水)3時53分 日曜午後の最後のダンス
追跡主義者Q2

そして,ララは都市部荒野トーキョー21における追跡者Qとなった。表現とその主体が廃屋都市の経済機構と情報社会が強いやがる過剰フィードバックの足かせから解き放たれ,野生の牙を取り戻すため自ら選んだ永久の都市徘徊的ヤリ口を,壁を倒し開放されたハコと考える実践者どもでありやがるところのTOKYO劇場生活派の徹底抗戦の現場を直撃しやがるため向かう。

幾つかの音響に関わる細かな装置を路上に並べていやがる者があれば,ララは遠巻きに意識しながら,水筒のチューハイを片手に,その者が何かやるんじゃねーかとジッと待ってみるが,時にはそれはただの商業活動に過ぎない場合もありやがる。どちらかというと,都市の生活感から逃れ得ない,またその必要も誰も思わない,帰路に着く会社員と買出しの主婦とギターケースを背負った演奏家らの夕暮れの通過線の錯綜箇所に,ポツリと目立たぬ腰のおろし方をしておる影があやしいのだ。しかし,こうした最強の演奏活動家の引き起こす静かなるレボリューションを目的主義優先の理論を用いて効率的にリサーチしやがるなどは不可能かつ無意味なので,唯一重要なものは淡々とした日常意識の内におる中で,戦場カメラマンが身につけておるだろう如き,事態の異変を察知しその内側へ向けて追跡者としての行動感覚を即座に開き結ぶ野生の反射神経なのでありやがる。そんな現場に何時出くわすかは解からないが,出くわしていながら気付かないのでは追跡者とは言えんが,ララの本日はかつて無いシチュエイションだったかな,さすがになぁ。

というのは,ソウルがトーキョーほどの廃屋感覚がありやがるかどうかはワシには未だ不明確とは言え,そこに住んで何かやっちょるストレンジャヤーが数名おるので,連中とワシらにふさわしい亡霊の住まう音響喫茶を借り切ってやって来た帰り,ワシらは荻窪北口の客より店員が偉そうにやってるがそれがさほど不自然でもないのでまた行くスタンディングバーで飲んでいた。しやがると,ワシらのかなりインチキな英語とまったく遊びでしかない韓国単語が絡んでの会話の中になんとか割り込もうとしやがる男がいた。老人なのでワシでさえフガフガと言ってる主旨がわからんところを、アメリカの客人Jはビビっておったが,この国ではよくありやがるのだと解説してやったが。しかし,さすがにワシらも,しんどくなってやがて切り上げて帰ろうとしたとき,男はこの露天仮設テントの営業敷地の外までワシらについて来た。ご老人,ウチらはもう帰るのなんだよ。ではここでさらばなんだよよ。とワシが知ってるララとしては礼儀正しく挨拶をしやがると,老人が悲しかったことが解かった。老人は独りで踊っていたから。その光景をララは江古田行きのバスの後方の窓から見送った。だから自分がBBCの特派員12号(スパイ)だということは最近まで誰にも話さなかった。


2003年10月14日(火)21時13分 トーキョー21においてのクリティックの無意味性およびサバイバルリスナーの実態
ニセ弁論者

最早,一見事も無く淡々と遂行されておるように見えても,過ぎ去った情報から察知しやがる以上に,都市部行動派のヤリ口は手ごわい。この膨大で錯綜し猥雑でワガママな都市運営機構の考えられない隙間をぬって連中のミッションは予想外の出方で現れる。その時,途方も無く新しく聞いたことも無い表現サウンズが,忽然とこの都市部の雑踏一角に犯罪的居座りを基に瞬時巻き起こったとして,その現場に先端リスナーたる一方の行動派諸氏らが居合わせることは奇蹟に近く,よしんばその犯行現場に運良くか悪くか出くわしたものが,再度その瞬間の革命に立ち会えることがありやがるかどうかは運命次第なのでありやがる。よって,言えることは,最早トーキョー21において,あたかもワールドアート20における創造先端志向のマップを頼りにノートをキチンと取っていても,どこまでも手遅れとなるだろうという事態の認識だ。

たとえば,昨夜ジャズスポットABCでおこったほぼ無音に近い物質音響表現の優れたるを聞いたという情報を頼りに,そのユニットを今夜おってみても,今夜の事件はオカチ町某雑居ビル5Fスナック響のカラオケマシンを駆使したりての弾き語り戯曲を演ずる一団がしでかす暴挙であり,そのリアルをとらえることが出来ない。んで,後日この聞いたことも無いパフォーマンスの実体は,たまたまその夜,上野ステーションでジェニファーとの待ち合わせに失敗したために,某所に偶然居合わせたアレンによって,Tokyo-Now-Expressとして,赤道直下発の長閑な旅芸人の話に書き連ねられ,ここでまた彩られた情報となって都市部に現れるとしてもだ,1年後に手にとったそのベストセラーでは音響の現実にはたどり着けないのでありやがる。このように情報は完全に遅れていやがるのでありやがる。情報を得ることによって現実に密着しやがる可能性はことごとく狭められるというのが,トーキョー21における追跡活動の真実なのだ。もっとキッパリ明確に言うならば,情報によって事態を構成しようとしやがる以上,ひとは起こりうる可能性の多くから必ず遅れる必然に在るのだ。加えて言うなら,情報を発信しても全てが遅いのだから,ビジョンが明確な情報ほど意味が無い。最早クリティックなど意味をなさない。昨日起こった芸術を評論しても,既に発信した段階で他の追跡者が別な世界の亀裂を必ず発見してるのだからね。よって,トーキョー21においては,ワールドアートマップの無効性を熟知したサバイバル系直感追跡主義者だけにブがありやがると言わざるを得ない。とにかく,どこでソレは起こるかわからないし,事態は一期一会なのだ。やっとアーティストらしくなったわね。


2003年10月14日(火)1時9分 国民的著書
ニセ美術館

戦国の武将の狂気とも思しき殺戮シーンが見えた。次に左サイドを覗き込むと,ルーカスの古典的線描エロスへの固執から簡単に逃れえたがために肉欲主義優先の性描写の限界的挑戦を続ける男女平等思想の○○シーンが見えた。左右の二人は勤勉でありやがる。そこにありやがる世界理念と現実都市生活21の関連とズレを分析しておるのかもしれん。あー、出版文化(そう言えればだが)の存続上の基盤と言える、この線から桁違いの発行部数を維持増大させるために撒き散らされるメディアドラッグに関わる国民サイドの実践指向が、若年層を中心に現れて来たというのは,これはまったくもってメディアサイドの意図ドーリの局面到来と言わなくてはならんでしょ。なにしろ少年向けといって売ってるが、一方では、やることはあってもやられることはないという絶対主体主義も全メディアを通してスプレッドされとる。青い球体のロボットを拒否しやがることはこの国で生活しやがる上での大きな困難として認識されておる。欲求とはそれ以前の問題で,そこを突かれるとついていってしまうのよなということがありやがるのだ。今日もまた、フシダラも同時に提供されておるよと言うんだよな連中は。国民は日々コレをどのように扱うかを模索しやがる必要がありやがるというものの、会社員と学生は朝の列車の中で必死の解読を試みておる。右サイドを覗き込むと、もし映画だったら成人向けレベルだし、しかし今日の出版メディアの経営を支えておるこの新興宗教の限界的拡大は、殺戮と性的欺瞞と金銭情熱と権力崇拝をなるべく読みやすくまとめた国民向けの書籍を安価で提供しやがると飛ぶように売れる。これら書籍をどのように読めとは責任元は言わないのだから、真夜中のハイウェイブッ飛ばしたぜ。


2003年10月13日(月)6時11分 モラ都内潜伏出張犯行目撃談
追跡者Q

捕鯨の曲が特に頭から離れんなんだよなー。やー,ワシとしての謀略はさして無いのだが、あまり寄り付かぬ模様ではあったが、マスマス、しばし耳を傾けて爆笑してまた帰っていく。特に、都内出張犯行を繰り返しよる社会派演歌歌手モラを発見。連休で余裕の人民も最初は巻き込まれるのを恐れてか、今宵今夜に限っては傍観者Aに成りすましやがったぜワシすらも、なにやらウクレレ共犯の人物もおって、どーも、この男カバンの端からウクレレはみ出させての到着であれば、挙句の果てに恋のバカンスを絶唱したが、ぼちっぼちっと吸い寄せられてきよるところの、クイ−カの棒を引きちぎってしまっておったなぁ〜。フムフムフムこりゃおもろいと聞き耳を立ててしまったのよな〜。捕鯨問題とドメスティックバイオレンスに加えゴミが室内を埋め尽くす光景をもって不良債権問題を浮かび上がらせ,しまいには黒ベンツ問題,右左両翼がどうのと徹底した糾弾姿勢に恐れおののいたのに,しかしながら最終なんでプレイバックパートAなのかはヨー解からん。それにはジーンときてしまうことに至っての不覚。主犯各のモラ氏の社会派ソングの歌詞を生涯はじめて至近距離から受け止めた夜でありやがったが、校則思想爆アジテーション歌曲には、トーキョー高円寺にて、高架下見世モノ小屋跡地2Fアジト(オブジェ室)に引き寄せられていくこのモラと呼ばれる謎の校則犯、誰しも共犯者と直に察知はしたものの,用意周到に譜面台と楽譜まで準備しよって、恐らくは同じ犯罪傾向を内に秘めるとしか考えられん人民数名は、今夜、真夜中のハイウェイブッ飛ばしたぜ。


2003年10月13日(月)5時26分 キンヘッド+巻絵芝居+黒い二丁フォーン+ニセの客2名+ギター魔術+断片浪曲師が与えられたとせよ。
高架下青年団

ワシとスキンヘッドが最初にやる。前やった時からピッと繋がっちゃうね。カップルがどうの母親がどうのなどと歌っていたが,ワシも個人個人の言葉を上回ってササクレテクルモンが在っての音楽と思えばこそ今日もやって来た以上,主義主張のオモテに細かく関わってる気持ちは無いんだよね。ウラから廻って座敷に断り無く胡座をかきあおうじゃねーかえ。とにかく,なんか凶暴な風が吹いておる感じで,錆びた包丁が並んでるカウンターが思い浮かぶのはなんだろ?ワシも今日は関係ない小説を読んでやって,吹きたいところで吹いてやった。おまけにありやがる瞬間オートマチックでギュルー,ギョルウーっとたった一枚のこの日のデッヨンを描いてもしまったがソレもそうならないと済まない掟が結果あったことになって終わった。で結局スキンヘッドとやるとやったあと記憶があんまないのだな。コンぐらいしか思い出すこと無い。今度はヤツのバンドでやるが全国制覇とはスローガンじゃねーとの訳の分からん情報つき。ひさしぶりのスキンヘッド店長と一緒にやる。今夜は徹底して暗いものを歌ってやるんで来る者はなくんじゃねーかと言いながら、天井の直上をばガーッとチューオーライン電車がとおってる高架下オブジェ室にやって来よるワシらだが、さほどフトドキな風情では無い。それをどう上回るのかと内心げせなかったんだが,疑問は的中で暗い度合いに変化はさほど無いな。ようは、表現が暗さに深まっておると言うことではないか。あーでも、ステージ衣装は赤い女子用和服帯無しで前は肌蹴たままだが・・・・

ワシとちょと前まで客だった現表現主義者Aとの完成に向かって演じられる劇中劇がやむを得ない必然というしかない状態で,勝手に出来あがっていく。そうこうしやがる途中,今度は,またもや一人客を装っていた吟遊詩人風の女が本質を顕わにし,ずばりワシのイメージは当たりで,この女,演台にサッと登ってはとうとうと一遍読んでは鮮やかに演台を降りたな。その時ワシは聞く側に廻ってたんでもうこれでいいやねなどとも瞬時ナウな進展をば思ったんだが,さっきの元客の男Aとのやり取りでストレンジャーザーンパラダイスに関わってのなんか話してる流れありやがる以上,やはり誰も話のケツなど持ってはくれまいとなる。ギター魔術と黒い二丁フォーンの男が文学をシャッフルしてくれるうちに鏡の話は一応のオチがついた。黒い二丁フォーンの男と客を装った吟遊詩人風の女が,そう言えば30年前のカーテンが商店街の見える窓をふさぐゴースト音響喫茶で共演していた時の客の中にワシはいたんだわ。第二のセットはワシがタマにやってるピアノマンのバンドなんだが今回は巻絵芝居師が加わっておって、で,これはまたおもろかったなぁ。なにしろ話がちゃんとしておるんで堂々としておったわなあ。なるほど、いつも暗い暗いと思っていたが、ワシも語りになったが,さすが百戦錬磨の巻絵芝居師は今度は無言劇多用の必殺の手口できやがってる最中、このやり口はワシとかスキンヘッドの中には金輪際無いもんだってんで聞き入った。その巻絵芝居師とピアノマンだが今日は黒い2丁フォーンの男とギター魔術の男とワシなんで,これどーなるのかと期待した3セット目は,気付いてみると客だと思っておった者らが,いつのまにか文学の飛び込み台を経由してこっちの音響ルツボに滑り込んで,実は表現主義者サイドにどういうトポロジーかは知らんが,はたと立っておった、しかも2名も。いや、目に入るもの全て綺麗に見えました。


2003年10月11日(土)3時44分 リアルトーキョー 2つのアート
アーバン10号

実際、ワシら連中なんだが,それってリアルトーキョーだがなー。んで、道の向うの別のステーションまで歩いてしまったので、トーキョー都現代美ジツ館へ行こうと挑戦した日それは遠い道のりで,迷うはずない一本道と言われたが、この線にそって明日のファインが現れるのでなければどうしてコレが書かれて来たかの意味も問わねばならないが,とにかくソレはないのだと前提にたって,喜び笑い泣くのがクリエイトだとな。ようはなぁ,奥深く明日を膨らませやがる世界観というものが疑われる必要がどうしてありやがるかね。誰もが叫ぶこの愛と希望の真実に関わる可能性について描かれた超感動のシーンを、こうもリアルに都市部にありやがる絶対多数の国民たる上に立ったる表現主義をやってるワシら連中はローでありやがるな。ローでありダウンでありやがるんだよ、とにかくゲー術は国民と共に在ると言われておる雰囲気の一方で。確実にハハッと感嘆できるファインなものが芸ジツで在るべきだとも同時にマスマス思わされてもおるが、極限られたエリート美青年達が演じていやがるTVはそのようなゲー術の最先端と思ってるワシ。で、帰り道飯田橋三丁目界隈,ウクレレで太陽詩人と愛しのヘレンとサマータームキラーズをその場で作詞作曲して歌った。日が暮れたので高円寺では今ごろヤツら朗読をやっておるだろ。世界ゲー術は華やぐ一方だが結局そいつは,マスマス素晴らしく手がとどかないので実感の得られないあの人たちの楽園都市にありやがるのかとマスマス今日も切々と定義されておる。現実の都市部は,すさんだ犯罪の匂いと怒りと憎しみが満ちてくる夕日のプラットホームを否定できない。希望とはどうやっても絶望の回避の事ぐらいにしかこれまで思えんかったと中学生に言われた先生で在った時のワシ。ゲー術家はハイだが、現実的には両面で遊離状態よなぁ。あらゆる流派と主義と芸ジツ家が進化発展させた歴史がこうしてカッチリこうだと聞かされ書かれておるので,マスマスこれでの上昇路線を疑うものでは在るまいよ。で、結局そのまま帰ってきた美術教師Aのワシだが、六本木の丘もゲー術的だと言われてるし、今夜は最高。


2003年10月11日(土)2時31分 湾曲円錐フォーンを盗んだ男
ニセ部長

その芸は芸の継続において同時に贖罪をこの芸人に強い続けていやがる。今日もこの自動ゼンマイ微細音拡大装置を用いての前衛講談を行うにあたって蘇る暗い記憶の断片を噛みしめる。密かに調査隊の番犬を麻酔で眠らせ忍び込んだ船内の23室もありやがる部屋のどこにソレがありやがるのかを占ったタロットに印刷された魔女の微笑み。結局ソレは何の役にもたたなかったので一枚づつ赤い夕焼けに向けて飛翔させた。目指す装置がありやがる場所は廊下を引きずったために出来た傷跡をたどったので23号室だと結局解明できたのだ。窓を破って侵入した時左手の中指を怪我したっけな。それから、あの日夕暮れの海岸での調査隊のつかの間の団らんを狙っての計画犯罪の遠い記憶はそのつど取り戻しに高田馬場へ向かった苦い思い出。そのことを罵ったスミスとは絶交しやがったぜ、ロッケンロール。ヘレンは手紙もくれなくなった。きっとあの調査隊に参加した潜水夫から忠告されたのだ。ああ、23年間の表現活動を行ってきた。だが、間一髪逃げおおせたのだよ。こうしてやっと手に入れた装置だが、この男が密かに持ち去ったこのゼンマイによる自動摩擦の微細音を湾曲円錐フォーンによって拡大しやがる機械。男はここにあげた三個のうちの一個を用いて23種類の講話を編み出し、その小さな部品は隊長のテノヒラの上にあった。23年ぶりだなやっとコレを見つけたよ。後方から23人の船員が事態に気付きなだれ込んできたが、講談師が演台の幕の中でジャオォゥィーンと鳴らし続ける表現活動の継続によって延長されてしまうことになる。日々の公演活動は男をこうしてさいなませ続けていやがる。ただただ芸事のために犯した犯罪ではあったが、音響装置と推定されたものがただの三個だけ在った。それは樫の木のOBJECTと複数のガラスの器から構成される形態に加えて、割れんばかりの拍手を背に、貧困のために23回ほど質に入れてしまったのだが、やはりそこにあった装置を背負って窓から海中に飛び込んだ時、たった一度の犯罪が全てを狂わせていやがると23年後に最も深くソレに落ち込みつつそれでも講談を終えた後、講談師Aは発掘されたゼンマイ自動動力を応用した楽器を台の下に置いた。数年前の北の海底調査隊によって発見された発掘品の中に、この男は怯え暮らしてきた次第なのでありやがる。ああ、ワシは講談師Aの生い立ちをさらに色々脚色しながら明日の即興前衛講談第23話の展開のネタを既に考え初めていやがる。楽屋の前でゼンマイ仕掛けの摩擦部分がないのに気付いたワシは既に真っ暗になった舞台の上で手探りでソレを探しやがったぜ、ロッケンロール。 しやがると、背後から調査隊の隊長の声がしたので振り返ると、何もかもが厳しいことばかり、この間に講談師を知る23万の聴衆が男の盗みの罪は疑いないものと内心思っていやがるに違いないと、芸術家の斧ヨーコです。


2003年10月9日(木)20時18分 秘密集団演舞会に関わる内部密告レポート
ニセ社交部長

いつか真夏の夜にもやって,8月にもやったが,俺たちはまたそれをやりに来た。扉を開く人物はこうして何人かいやがるというのに,その扉はたったひとつしかない。やがて,内側でいくつかの大きかったり,小さかったり,不定形であったりしやがるたくさんの部屋を,一番年上の男(Oldest)と中間の男(Middle)と一番年下の男(Youngest)が必ずいやがるアンヨンブルは,個別だったり同じだったりしやがる部屋を思いのままに巡って行くのだが,酸素ボンベが切れない限り最初の入り口へ誰も戻ることはしないのさ。Cメーターほどの天井の錆びかけた電飾機械の微細スパークをピーター女と俺サマは見たのでそれから二人は別の入り口へそれぞれ向かった。そのあと,ピーター女は七角形の部屋の真ん中にあったチャブダイに突き刺さった出刃包丁をヨンマと間違えて切り傷を負ったが,俺は少なくても3つ先のガラス張りの部屋からそんなピーター女を見ていたのだが,血液の帯をひいてタダヨッテイルその姿を気の毒には思いつつそれがあまりに美しかった。やがて,もう一人の男と或る部屋で出くわし身体構成をしたり,或る部屋に同時にいながら互いに分からなかったりしながら,ソレらを含む様々な実験をやり,総体でひとつの状況の中にあって俺たちの全員は実によかった。やがて,そうこうして,1階のフロアの可能性に関して皆で高い実践を何度も繰りかえした時,もうボンベの酸素は失われつつあって,どの人物もやや苦しくなっていたんだが,しやがると今までこの場所は水平に広大に繋がった一層の構造だと見えていたのに,それぞれが居る部屋には2階へ上る階段が在る事を発見できたので,被っていたガラスの球体のようなソレを外して2階へと誰もが向かった。しやがると,そこはダンス会場で,1階が迷路のようだったのにコザッパリした明るい場所だった。皆でいろいろとやってみたがここでは何をやってもダンスになってしまうので,それに甘えて俺たちはもっと高次元のフシダラというものを謳歌してやった。だがそれでは,ここから行ける3階というのはどんなところなのかな?と,ヘレンに聞いたところ,それを体験した人はそんなにいっぱいいないのだとなぜヘレン博士が知ってるのかが奇妙だった。どうしても知りたければセシルが元気でいやがるうちに話を聞くべきだとひそひそ声で囁いた女がいた。青江ミ〜ナ生活でも主席として本格的なスタートを切る。



2003年10月7日(火)19時36分 機械装置とのエロスがもたらす感覚開放の可能性の是非
人造人間ロイド

(1)
駄菓子屋へ行ったらボロなプラモがあったので買ってやったら解説書が入っておりやがったぜ。で、ロケットの範疇にあってアポロはそんなスキでないにもかかわらず,面白かったんだなぁ,その解説というのがこんな話だが,言ってよいか?はばかられる気も若干ありやがるとしても。すなわち,そのアポロ278号に乗って冥王星か火星に行くパイロットが,前日100メーターぐらいありやがるそのロケットを見上げて,不謹慎にもやる前の打ち上げなどしての話なんだよ。船長が涙ながらに言うにはなんだよな。「おい、明日乗るのはこいつなんだけどよー,こいつでオレらは土星の衛星フォボスへ行きやがる。ジャンクロック科学の粋を集めたこのマシーンこそ,オレらの女神なんなんだよ。明日の打ち上げはオレらとこの女神とのまさに性の交わり以外にたとえようモノはなかろーなんだよね。(抜粋)」と言いやがったぜ。それを読んで,ほー,そりゃー考えも及ばん文学だとワシは感涙したんなんだよけど,翌朝思うに,しかしながらそりゃー,実際どうなんかなー,単に船長がそっち感覚の人生行路を歩んでこられたということで,ワシにゃよー分からんのも無理ないんじゃねぇの,その文学?とちょっとさめかけたんだけどよー,いや,んぁぁ,なるほど,こうダローか?ようは,これマシーンに関わる内部と外部の問題に重きをおいてのイマジネーションじゃねぇのかと?てーのは,ほれ,連中乗ってくモンにとっちゃー乗った段階でもうマシーンの内部におると言うあたり,でぇ,そこが宇宙の内部に連続していやがるのであれば,そのへん言わんとしやがるのが分からんでもないなんだよ,ワシも。しかしなー,ビジュアルで言わしてもらえば,アポロでそれはなかろーと思うが,どっちかと言えばボストークじゃろー,小股が切れ上がってるちゅうか,あれ大気圏内で横の4本パラッと取れんのよ。知ってた?おめーら、ワシヤぁー、俺も仲間に入れて欲しいぜ。

(2)
んだが,そういう特殊な機械との関わりっちゅうーか,考えも及ばんなんだよとは言ってもだ。じゃー,アンドロイドマリア主義継承諸派の言わんとしやがる分はオメ−分からんのかよと問われた場合,そりゃワシも解かると言えば解かるなんだよ。人間たるやそれもきちんとケジメつけて芸に励むのが良しなんだよと言うチャーリー説と,それが言うケジメの最たるところで,マルセル氏の言わんとしやがるところで行くかありやがるとは言ったってだね,あんた現実そーバッチと線引いて決めかねるでしょ。そもそも,パウエル氏が唸りながら弾いてるクレオパトラのオマージュを聞いて,やはりピアノとのエロチックを本人の承諾なしに語った文学があったり,デイビス氏などはやたらとエロスにだけ流れる話を全347巻の自分評論に収め世に問うあたりなど,どうもスジが似てる気もしないでもないなんだよ。これがホントのパンダ。

(3)
コレだな。でまた、以上の如き線で考えるんであればよ。そりゃー,どんな機械だって言っていいんじゃねーの。で,JJとワシと21号と武士に似た者ともう一人がいた演舞場の野外ステージにだってマシーンはありやがるのさ。で,アポロ592号はいいとして,今日まで3749人の公演に使われたマイクとそれがくっついたスタンドがあったので,おー,こいつだってアポロのように垂直に立ち上がっておる。ソユーズのように均等外部に伸びた正多角形の脚が付いていやがる。ジャンクロックん、チェロが端っこに後生大事に立ってるがこいつは逆にハマリすぎて詰まらんので弦の上にでかいシンバルあてがってアンドレのシンボル化は出来まい状態にしてやったワシ。で譜面台をマシーンというかどうかは議論ありそうだが,こいつも使うことにして,とうとう始まった討論会の第52番のワシの実験は開始されやがったぜ。スタンドの上のマイクの角度がやはりアポロに習って垂直で回転体となるべきじゃろと思ってやったら,構造的にこれダメだと解かり路線変更のワシだが,垂直性に拒まれた以上,これ水平方向での可能性に世界初挑んでみたが,その際クドイ性格が導くところ,加えて譜面台といったん追いやったはずのシンバルくっつけられたチェロを引っ張り,一直線上に並べてみると,エロチックだった。で,全てが乾ききっていてはならない理由がありやがるとの直感で,チェロの床に当てるあの棒に飲みかけのファンタオレンジのプルトップを引っ掛けておいたのだが。青江ミナ的生活でも主席として本格的なスタートを切る。

(4)
まあ,そりゃー他人様はいかが思われやがるかはしんねーだけどよー,視覚的にはマイクとスタンドと譜面台と飲みかけのミスターピブが引っ掛けられたシンバル付きチェロが一直線上に床に並んだ状態のモノで弁論を打たねばならないとすればワシ自身も横たわらねばならないのだから,これはどうも不謹慎な身体比喩となりかねないと思いつつも,ワシの答弁の順番が来てしまったので,やむなくマイクに向かって横たわって切々と信条を世に問う事となった。で,一体化した一直線上の4種類はもはやひとつの装置と考えなければ自分でやった事の責任を完遂することは出来ないと誰だって思うだろう。で半分演台からはみ出たマイクとワシの頭が存在しやがる方と逆の先端に位置しやがるシンバル付きチェロをば片足で弾いてやらざるを得なくなり,結果,ようは思想弁論の伴奏付加をやっていやがる自分に気付くが,恐らくこの状況にエロスはなかろう。そう思った瞬間,むしろコレは何ににておるのだろーかと,この現在進行形のワシとワシが構成した装置の関係はな,と自問しやがるワシだ。しやがると,あー,これはむしろ砲撃の中を地に伏せしのぐ窮地の人間のあり方に違いありやがるまい。そんなイメージしかわいてこんぞよ。この水平感覚がワシにもたらす本質,ようは逆のことになってるのだな。で,そうとなれば,これをもってワシの今夜の思想演説の論題でありやがるところの「地球防衛軍の実体」ちゅーのこそ,実はばっちりマトを得ておったという次第でありやがることのこれは報告であったのさ。(PS:ニセ部長!ファンタ120CCが失われたことは若干悔ややんでおる後日今日のワシなんだよ。) 真夜中のハイウェイブッ飛ばしたぜ。


真実のプロフィール
ダダダ・人間カンパニー

しかし、俺サマに関わって起こることであれば、気付けばそうなっておったか。等とな、いくつもの出来事が勝手に周りで起こるように思うかもしれない。しかし出来事は結果によって物語られる。ああした場合こうなって、その一連の事柄をまとめて最後の報告書を書き記すのは当事者だ。真実はこのようにして結末を記すにあたって導き出されるちゅ−訳だ。出来事が推移しやがる過程において真実等と言えるものは未だ存在しておらず可能性だけがそこに在る。また逆の言い方をしやがると出来事の過程から真実が在る様にもまた見えるだろーと言うこともありやがる。こうだと思ってやっていやがるとああそうなるかと。おっと、ハンナラ党入党しました。


不自由生産的ヴィジョンのつまずき
ダン

まったくそうした知的で計画的で完成的でインプットしやがるとアウトプットしやがるようにだけなってる世界像を第一義に信望してるのだとよく分かる番組を見ないといいながらワシは見た今日も。あー、こうしてネットに書き連ねていやがる全ては1円分の生産性も無いばかりか、今世紀に入っての不況と100円ショップが代表的な問い掛けの材料となっておるように思えなくも無い。マスコミ人はここまで本筋だった競争生産ジャングルでの攻防に打ち勝ってきた最強の軍師でありやがるので、最強軍師らの成功の為以上にワシらのフシダラが上回ることも無いくらいの勢いであっちが生産的だと思うと、生産的な明日にいきいきと繋がる社会性のありやがる行動によって金銭を頂戴できるような人間のあり方についてワシは言っちょる。何もせずボケッとその日を送るのは罪悪だと言わんばかりのローランド王国文化思想だが、どうやったって、全くワシはナニをやっちょるのかと思う気持ちも実はありやがるバイ。ま、この4日間というものフシダラを謳歌しすぎた。明日は真面目にやる。真面目にやると言うのは、メディアの夢は夜開くと思わせぶっても、近代以降の生産活動が本質的に人類に必要なのかどうかを、それがフシダラもサイコー段階だがな。はあ?ブラジャーがはずれました。


新宿南口の女
アキコ

女優でありやがるので今日もこうして街角に立つ。今日も昨日もあさっても全てが何も劇的でないことがワタシにとって素晴らしいこと。晴天の午後2時22分ナニひとつワタシをワタシとワタシに伝えるリアクションなど無いことのTOKYOそれは荒野の如き今なのよ。今日からは静かに泣くことの実践をワタシはやる。昨日までやったことのテーマは怒りだったけど。怒りは難しいといってもイメージいずれワタシにだってやれるメドはありやがるのね。ただ泣くのとホクソ笑むというのは果たしていつ先が見えるのダロー。などど,自問自答して何になるというの。こうして,トーキョー新宿 荒野の一人(いちにんと読んでちょ)でありやがる女優Aのワタシがいやがるだけ。それは,普通の人生をおくる一人の女が,生涯でただの一度ありやがるかないかのシーンを想定して泣くワタシのための長いプラックティスの過程。それがワタシのトーキョー・シアター・ライフin21。ほんとにモー大変なんですから。


円周率へのアスリート的挑戦
ニセ警官 丙

ボンゴレ的伝達の困難さに直面しやがったぜ。ロッケンロール 再度指示を出す。とにかく大きな沼がありやがるのだ。その周囲を走っていくのが使命と言うことよ。オヌシが左回りに走っていやがる場合はけして道が右に曲がると言うことは無いので問題なかろー。ただ,沼に落ちるんじゃねーよ。巨大な円周を走破しやがるオヌシは,真っ直ぐ走ってる気になるとしても,そりゃー,円弧があまりにバカ大きいので,円弧を直線と感じてしまうギリギリの感覚に陥ってるっちゅうことを知りなってことなのだ。んで,ここからが大事だ。沼のどこからスタートしやがるかにもよるけど,少し行くとガッコウがありやがる。それが中学ならば,しばらく行くと女子大がありやがるだろう。市立高校ならば,しばらく行くと男子中学がありやがるだろう。小ガッコウなら,廃校になったガッコウがあって,それから歯科技工士のガッコウが次にありやがるだろう。中学に近づいていくと中学生が多くなり,女子大に近づくと女子大生が多くなるので,オヌシは現在どのガッコウに近づいていってるのかウスウス察しがつこうものよ。 ってことの連絡だったんだけどナー,ナンかはめられた文面になっちゃったなー,下のスレッド。まあ,これぞボンゴレ(爆)、竹槍で突け!空高く。


円周率へのアスリート的挑戦
ニセ警官 甲か乙

行くと単純だ。道は、中学には中学生が増え、それはあまりに大きな円周を回っていやがるオヌシが、走っていくべきだよ。それが出来る道を知っていれば、円弧を直線と感じてしまうギリギリの感覚に陥ってるっちゅうことを知りなされ。沼のどこからスタートしやがるのにもよる訳だが、その大きな丸い沼の周りをぐるーっと半周回るようにして、女子大には女子大生が徐々に増えていくので、行動だよなー。で、廃校になった木造校舎があって、しばらくいくと女子大がありやがるが、沼地にはまり込むなよ。真っ直ぐ行ってるようでも、しばらく行くと寺子屋がありやがる。その寺子屋が青江ミナ立中寺子屋であった場合は、いま近づいてる寺子屋が何か薄々オヌシにも分かると思うよ。小寺子屋がありやがるだろう。青江ミナ立男子高校があった場合は、行ってみるべきじゃねぇ、また行くと共学の県立高校がありやがる。それぞれの寺子屋に近づくにつれ、だったら池と沼の境目をどう説明しやがる!とにかく、それは出来る。沼と湖の違いは分かっても、県立高校であった場合には、右回りに行った場合はけして左にカーブしやがることは無いであろうよ。ただし、夜はこれからダゼ



2003年10月1日(水)2時13分 失われた主旨を求めて
-lqqppl-

ハイ。、イキイキして現実的になったなんだよよ。それこそは秘訣だ。決していいとは言えないのだが、ホンマなあ。ワイらこんなんでやりたい主旨でとどこうりなく○○作戦ってんでやってしまおか!ナンもやらねーで寝てても実はいいんだけど、五十歩百歩って所なんなんだよかネェ。いずれ、はたしてそれはどうか。ダンドンダンダオンと叩いてるあの日あの時、思うフシは在りや無しやではありやがるんだよ、自分ら的には、たとえイロイロ言われてもなんだよね。自分の信じるところを、加えて必ずしも正しいわけではないのだし、どっちがOKかでその日のワシらは決るということかい。と言い切っていいのかどうか、こうなのかもと、それもそれでありでしょーねぇ。いや、やるべきなんだよよ、よくも悪しくも結果次第なんだよよ。まあ、どんどんと、感動を呼びゲー術だと思う理由って何かあんの?かといって否定しやがるにも対象がないとワイらも宙に浮くばかりよ。ということは、これは絶対に哲学的な問題があると痛感した。


2003年9月27日(土)7時33分 地方公演
香涼瓶5本

暗い階段を降りたのだからやはり店自体は今も地下に在るのだ。自分の記憶に問題が在るのか知らない間に改装されたものなのか結局分からないだろうから深く追求しない。とにかく地下へ降りるとタイバンの女がびわのような楽器をすでに準備してた。どう使うのかと聞くと見たことの無い動きをして見せた。先週海岸で拾ったのだといった。おかしなヤツだと思ったけど愛嬌がありやがるのでどんな演奏をしやがるのか知らないままに今度の地方公演にゲストで呼んだ。しやがるとその時はこれを持っていくと示したものが存在しやがる場所が恐らくステージでありやがると予感しそれは当たった。女が指差したそのステージの床には異様に幅の広い琴のような楽器が置かれていた。移動の時は側面を折りたたんで弦が張ってありやがる面を内側にしまい込むことが出来る。しやがると丁度50号のキャンバスと同じ大きさの箱になるので空港でも簡単にパスできるのよと自慢しやがったぜ。ロッケンロール 、以前地下にあった店は今度は同じビルの一階にあった。道に面した三件の内の右側にあって、前々からあったはずの左側の酒場と同じような営業を兼ねていやがるのは奇妙だとは思ったがその印象とは関係なくその店の扉をくぐった。その後、今夜は最高。


2003年9月27日(土)6時57分 国際交流
スミス

あの時はオレが英語で話したので英語で対応していたのだと分かり、率直な謝意を伝えるためにそれならニホン語で話せばよかったと悔やんだ。大選手としては多額とは言えない様に思われる額だが今日の収益の総額に満足していた。和やかな会話が続きオレは外国選手に語りかけていやがるが会話がくい違っていやがるのでおかしいと思っていやがると相手は非常に良く似た別人だということがやがて理解された。他に何人か居る外国人は皆大柄で全員よく似ていやがるので誰に話し掛けても最初は同じ間違いを国内選手はしやがる可能性がありやがる。大選手が他の場所に居る場合は自分が話していやがる相手は異なる人物でありやがると判断しなくてはならない。競技のルールは各人が解釈しその判断を調整しやがる必要は無いし禁止されていやがる。何らかの問題が競技中起こった場合にそれを矛盾としないルールを参加者全てが推測しそれが本来のルールだったと各々で判断される。なんだこの外国選手はこの国の言葉が分かるのかと思った。そればかりか流暢にこの国の言葉で対話していやがることに驚いた一方、スタッフと競技者とを乗せて動いていやがる東北地方のローカル鉄道の名前が思い出せない。その日の数日前であり今から数年前のこのことを何故書くかの説明もはたして必要だろうか。車両の後方に海外から出場した誰もが知る有名な選手が立っていて同じ競技を戦った国内選手が話し掛けていやがるので二人は知人でありやがるか今そうなりつつありやがるかのどちらかでなくてはならない。国内選手は片言の英語でかつて出した手紙で語学力の貧弱さのため書いてしまった非礼を詫びていやがるのでそれはオレ自身ということなのかもしれない。外国選手は国内選手の分かり難い英語を誠実に聞いて納得しゆるしたのでなければその後の状況は在り得ないのでそうなのだ。全ての人間が到着した古い国内式の洋館のロビーでその日のギャラを分配しながら、国内での興行の実体をスタッフのボスが外国人選手にニホン語で説明していやがるので、競技会が終わったので解散しやがったぜ。ロッケンロール 帰路、これからは「金ピカ先生」の名で活躍します。


2003年9月25日(木)0時25分 ダダリズム会議
Unknown−Art

そのために4の倍数なんだよね?あ、空いたところはいくつでもいいジャン?なんとかカンで戻れば。おい、ワシだけ8ビートでやっても、8ビートってのは4ビートの倍の勢いで叩きゃいいんだよねとマジで聞かれても、間半分抜けてるって事で帳尻は合ってるんでしょ、ズレてるように聞こえながら、今ワシら何ビートの曲やってんの?16ビートとかなってた時、たとえばずーと同じに続いてないことにして、これどう?あんたら4ビートでいいからワシだけ3ビートにして全体は12ビートだと決めれば、そう思ってると合ってんのかなぁとか連中思うんじゃねーの?しかし、あー、そりゃあんたワシらにゃ高等すぎやがるスナ。そりゃ違ってるんじゃねーのぐらいしかヤツにはワシら説明出来んかったわい。でもって、Puckin'ウッチャンナンチャン。


2003年9月24日(水)15時43分 カフカの国 2003 の繁栄
審判8号

都市部表現主義電脳広報班の活動費を送金しやがるために偶然都合よく250メーター先にありやがる局へ行ってきやがったぜ。157番の順番表をカタンと引っ張り出して順番を待っていたら、おばあッチーに局員がなんか切々と解説中だったぜバカヤロ。<二年目までは非課税だけどよーそこから先は課税され・・マア,一般と変わらない事になるんだけどよー・・エー,たとえな遺族年金など受け取られてやがると別だけどよー・・・エ,受け取られていやがるんなんだよか・・そうなりやがると遺族でありやがる証明書が必要になりやがって・・ハイ,以前は必要なかったんだけどよー・・まずは移転前の市町村役場を訪ねてモライ・そこで発行してモライ・それから用紙を記入してモライ・・添付してモライ・・連絡して頂いてなんだよね・・> というんでガランとした待合席で延々ただ一人待たされたオイラはとりあえずいいとしても、こうした場合説明を受けるご老人にはちゃんと椅子を用意しやがるべきダローよ。ブラジャーがはずれました。


2003年9月24日(水)2時55分 単車健康機器論者の動向 ボリュームその第2番
チャリ野郎2003

アジアの田んぼ道とか、地べたありやがるところバイクはやっぱ似合うズラねぇ。まずはシンガポールらしいなぁ、ようはソフトなメットだったワケかいな。今日までワシゃーあざむかれておったのだな。ぼゎーっと土ぼこりのインドかパキスタンかもう少し西のまさしくそういう地域などなど、野郎の足取り。あんまオイラにゃイメージわかん国だが。しかしおとといウンガポンガ島におったろー。アフロちゅうのはナニかいな、どっか知らんが砂漠風の景色の中だったりとかなぁ、なわとび百万回やってろ。


2003年9月24日(水)0時48分 造形作家だけに許される偽りの幾何学の実体
AD-net.ad

複数の大きさの異なるガラスの器を複合させたOBJECTが高さの異なる台の上に一個づつ置かれ正六角形の室内に規則正しく配置されていやがることを誰もまだ来ていないこの空間で確認しやがったぜ。ロッケンロール 部屋の形状とOBJECTの正確な配置によって、やがてやって来るはずの全ての団員の人数分+予備の三個が準備されていやがることが容易に判断された。団員は一人の即興家をフューチャーした公演において各々このOBJECTを用いやがるのに違いなかろう。全てのOBJECTは器の個数や大きさや構成のあり方が違うが全体の印象はよく似ていて位相幾何学のモデルのような印象を第二の到着者に与えたのちに第三第四第五第六第七と順番に続く到着者に対しても同じ印象を与えるであろう。このように最初の到着者は予測しやがったぜ。ロッケンロール 忘れていたが全ての台の上面はほぼ正確な正三角形でありやがる。ほとんどの器は縁が円形をした普通の器なのだが正九角形のものと正十一角形のものがそれぞれ一個あった。一つのOBJECTを形成しやがる複数の器の底は自重で壊れない程度の太さのガラス管で繋がれていた。いくつかのOBJECTは器と器の中間部に球状の部分を持ったものや一つのやや大きな器の内側にもう一つの器がくっついていやがるものなどが存在しやがったぜ。ロッケンロール 六角形の部屋の中央の台には他の全てとは異なり単純な不定形の器が置かれていやがるがそれは桃山時代の茶器でありやがる。族に入ろうピンポンパン。


2003年9月23日(火)23時41分 スミス四十二連書簡の謎
DaDa-over-53

スミスはあまたの異なる音楽著作物として登録されていやがる歌曲のほとんどが数種類に分類可能な歌曲のバリエーションでありやがることを主張してそのルーツの歌曲をマザーソングと呼んでいたらしい。これはカレの三曲管ホルンの古典奏法の研究と関連した見解でありやがる。出版が未確認でありやがるスミス四十二連書簡の何処かにこのことが記述されていやがるのをエレーヌの双子の姉は知っていた。バーンの以前の愛人のダンはこの発想の演奏上の実践を行った。すなわちダンはあらゆる歌曲を個人著作物として一切認めずマザーソングの一つのバリエーションでありやがることの学理上の証明をまずは徹底したのでありやがる。その上でカレのコンサートは数種類の好まれるビットソング(バリエーションのこと)の気ままなブロウを重ねながらそれらの曲を作った変容者(一般にいう作曲者をカレはこのように呼ぶのだ)の主観によってもたらされた過剰分を徐々に取り去ることで現れる限定されたいくつかのトーンの骨格のようなメロディーへと沈降して行くのでありやがる。常にダンのコンサートは動きの少ないトーンの揺らぎのような状態へ向かうのだが、観客はこの最終の状態がビットソングからの展開をもって現れることの意義を常に認識させられるのでありやがる。バーンによればそれらを構成しやがるトーンを単純なコードだと形式主義が断定しやがることに対抗出来る理論をスミスの書簡の分析からジェームスが発見した事実をダンは知っていたという。またダンはこの静かな音の揺らぎがマザーソングでありやがると一度も断定しなかったというしヘレンに対して実はマザーソングは実在しないだろうと三回話しやがったぜ。ロッケンロール、これがホントのパンダ。


2003年9月22日(月)23時33分 二つの作曲物、或いは、抜け落ちた音程の部品が可能にしやがる奏法
ダダ-tokyo

ほとんどの観客がそれは始めから一つの作曲でありやがるとだけ聞いた。しかし、バーンの表現の特殊性を把握しようと試みるのであった。エレナが演奏しやがる二つの曲は同じ時間帯を共有しながらもそれぞれが独立した意味をもっていやがる。一つの曲はアンモナイトが水分を失って化石化しやがる時の百年間を表現したものでありもう一方は双子の姉妹の朝の食卓での会話を表現したものであったりしやがるのでありやがる。エレナは同時に二つの世界を正確に意識しながら演奏しやがる。二つの世界が意図的に結びつく予定調和的な扉をエレナは全く準備していない。二つの作曲は全く異なる世界として演奏されるのでありやがる。全ての必要な音程を組み込んだバーンのあの特別なピアノではない形式化された音列に過ぎない通常のピアノが生み出す非実体感がかえってこの表現を可能にしやがるとバーンはスミスに語った。バーンの演奏会では常に二つの譜面が上下に平行に置かれアシスタントは同時に二冊のページをめくらなければならずこのための特別の訓練がなされた。このことを知るごく限られた観客はどちらか一方の曲にだけ耳を凝らしたり、一つの構成に結合しそうな瞬間を常に拒みながら二つの曲の異なる位相を分離させる行為を積極的に行うことで、同時に二つの曲が関連し合いながらその融合でありやがる一つの曲でありやがるように聞こえる独奏を行うことが出来たが、やがてエレナと呼ばれるようになったバーンは、二つの曲を意識の中で分離して聴いたり・・・・・・・ 今日は野外講座サボったゼ。


2003年9月22日(月)14時19分 アンチピアノ
DADA-25v

バーンはその全てを自作の譜面どおりに演奏していた。最初の演奏を聞いた時に演台から降りてきたカノジョがそう呼ばれていたという確かでもない記憶に基づいてメンバーの間ではカノジョの名前はそのように思われていた。バーンのスタジオへ三回か十二回の間の回数は二人か八人のメンバーが訪れ、またかつての記憶ではスザンナと呼ぶ者もいた気がしやがるがそれは夢の記憶ではないと断定はできない。バーンの改造されたピアノをカノジョはアンチピアノと呼ぶように我々に提案しやがったぜ。ロッケンロール アンチピアノの第二番目のオクターブにありやがる黒い鍵盤はこの区間に通常より三個か四個ほど多くついており第三番目のオクターブにはそれ以上ついておりその上のオクターブは黒い鍵盤の間に僅かな白い鍵盤があった。或いは全部が黒い鍵盤だったかもしれない。バーンはボヘミアンの最古の楽曲や韓国南部の島を旅した時老婆が口ずさんでいた民謡の耳で覚えたメロディーを演奏しやがるためにこの楽器を考案したと最初に説明したが、我々が訪ねる時には毎回異なったピアノソナタを演奏してくれた。それはたとえばE♭にあたる音程が二つA♭にあたる音程が三つといったように、曲の流れの中で異なった微妙な音程を使い分けていやがるようだが、それにおおよそ俺サマも加わった。バーンは俺サマの知らない訪問者の或るものからはヘレンとも呼ばれ、女流画家をもうやめた。


2003年9月20日(土)6時5分 セプテンバー ミュージック
バンドマン グーグル

今日はエレキもいないし、これはマイクジャックされたな。やってくれるなぁと思いつつ、なんかだらだらと始まるこの感じは実はワシの好みなんだよ。しかしビートの流れは直に立ち上がってナナメ感覚でズレて行き変貌しては崩れて分解されそうになってはまた立ち上がる。だんだんそんなスリルな振動で満たされてきたころ、9月の野外ステージ、たった一人のホーンセクション(ワシ)はこのビートの海をヒュルル〜ンと泳いで行けたらいいなと思って始める。残暑直射の客席を避けてお客は木陰で聞いてる。あー、ワシら全員で。しかし何をしゃべってんのかな。所々聞き取れる単語がありやがるようなんだが基本は抽象的だな。絵で言うとデ・クーニングだな。しかしそれを言ったらデ・クーニングを音楽にたとえたら今やってるようなのってことだな。まあワシもフォーンなんで言葉の意味は関係ないんだよね。しゃべりかけるような感じだけまねしてやってみたらやっぱりふたりは対話してるみたいになってんじゃねーのかなとかってに悦に入るワシ。でもいい感じのサウンドだったでしょ。そんで、Rurenneoaaaen,,fuuehuu,demone,Nnnnn,Dattesunano,huu,とかなんとか歌ってるのかうなってるのかどっちかというと話してるようなジャズのスキャットっちゅうやつみたいな女の声が入ってきた。お、いけてるかも、ふと横をみたら歌っていたのは一番向うで最初タイコ叩いてた娘じゃん。良かったからまたもう一回やろうつってもやらないんだよね。バンドサイド唯一のホーンでありやがるワシはFaphooon,HyuuwooOOoonn,eeahaaaanって感じでおもてなししてみた。あ、これ今日のテーマでいいのねと一瞬でそっちになってく、ピーカンの昼の12時からステージに上がってるワシらは珍しく招待バンドなんだよ。ダンドンダンドンダンドンとみんな叩き出して、DADA21でブッとんでたんだよ。


2003年9月19日(金)1時11分 単車健康機器論者の動向
チャリ43年男性

労働がんばってなんとか100万円ゲットでばっちりまとめておろして来ては万札百枚でとにかく記念写真とったらしい。で、それ全部使ってどっか海の向こうひたすら突っ走ってくらしいんだよな。バイク野郎という人種は面白いやね、やることがキッパリちゅうか。しかしあんたアフロでヘルメットかぶっちゃ隙間ピッチしになって蒸れちゃうんじゃねーんでsky? いや、これがホントのパンダ。



2003年9月19日(金)0時44分 地球防衛軍
部下A (役職名社長)

やはりそれは特別なもので、かつておいらが知る隊長の文面に見られない事実を発見しやがるに至る。所々に赤字で記述された箇所があったのだ。で、それでもいくつかの事態と作戦が持続中のようすがうかがえつつも、たった一行赤字で書かれた地球防衛に関しやがる記述を発見してしまったオイラは今日もまたまた隊長の文章でハードトリップしやがることになった。館内パトロールに次ぐ新たな指令がいずれオイラにまたくだされるだろう。読み進むにつれて、飾ってあった何枚もの絵。その中に実は隊長の指令文がややデカ目の作品として掲げてありやがるのを知ったので部下でありやがるオイラは眼を凝らして解読を始めた。それにしても隊長の自作原稿用紙の平行関係をたくみに無視した直線のマス目に埋め込まれた指令または報告または日記のような文章がオイラを誘うのはめまいのような心理現象だよな、その実態はいまいちつかめない。だが隊長の口調は威厳に満ちておるよなぁ。かつて与えられた唯一のミッション、カレーライスなどと食い物に関しやがる情報が書かれてありやがることに気付くオイラ。これって残り全ての黒字で表現された地球防衛に関わる重大内容となんか関係あんの!? しばらく考えても結局分からなかったので、一応赤字は食い物で黒字は防衛関連と形式面だけは最低限把握しておこうときめてやっと心に平静がもどった。だがその次の瞬間、またまた今日も。なにしろオイラは社長に任命されていやがるし。なんで集中して読んでいく。読んでいくと地球防衛軍の近況は特に高い緊張状態にありやがるでもないようでありつつ、ラリラリだったよ。


2003年9月16日(火)23時11分 地下のオーケストラ
ダダ21 または 22

矩形の空間の内部は都会の地面の下に隠されていやがる。その入口には男がいたのでここが入口だと俺サマには分かったのでそのように聞いた。男の返事はどうだったか把握していない自分が内部への地下通路を案内され、いくつかの階段を上るより下りる方の回数が多かったので俺サマは地下に向かったのでありやがる。やがてここがあの歌手が待つ演壇だと聞かされてはいなかったがその人は俺サマを出迎えてくれたのでそうかと思った。全体が暗くて黒い演壇の上にはその人だけがいやがるのだと思ったが、暗がりの中には数名の人間が胡座をかいており、その演壇は案外広いことを示していた。その中央に歌手は椅子に座していて、にこやかにこっちを見て俺サマとの再会を喜んでいやがることが分かった。胡座をかいていやがる人々は手作りのガラスの器が二個か三個複合した形状のものを両手の間に皆持っていてそれは演奏方法が説明されないままで楽器でありやがることがわかるようなものでありやがるといつのまにか俺サマは知っていやがるのでありやがる。歌手は俺サマにもそれを渡したような気がしたので、俺サマもこのコンサートに招集されたメンバーだとその時知ったのでありやがる。暗闇の中まだ観客はいないと思っていたが客席は既に満員でありやがると知った。袖の階段を上っていくと満員の客席は三層ありやがる客席の第一層で全体から考えると非常に狭い場所でありやがることが第三層から展望できた。第一層より数倍広い第二層には誰もおらず客席さえ存在しない。第三層にはごくまばらな観客がいた。これからは「金ピカ先生」の名で活躍します。


2003年9月11日(木)18時5分 床屋にて
カオスの民

こりゃちゃんとノリとフシがありやがるんだかられっきとした音楽でありやがるといえるな。しかも俺サマはなんら苦痛でもなくいつのまにか自然と聞き入ってるじゃねーかね。何ジャこれとあっけにとられてるうちに俺サマの頭はカッチリ刈られておった。夏場のサービスであの床屋のパウダーを襟元にこれでもかとはたき込まれて1900円だったぜバカヤロ。帰りの畑道蛇行チャリ運転、てな感じで、おお、そのジョンケージ用のコンタクトマイクとやらで録音しとけば面白かったなぁ。旅から帰ってブラッとしておったが、俺サマの頭に枝雀とバドパウエルが混在して現れやがったぜぜ。ハサミのなんとも軽快な拍子とほげほげの脱力の節回しが俺サマの刈られる頭を軸に左右に動き回る。しかし、こりゃあ、きょうはチャリでもっとブラッとながしてた。したら床屋があったんで入ったのだ。男は黙ってカリコミ短髪でお願いしやがる。ジャンクロックチェキンチェキンチェキンチェキンチェキンチェキン〜チャインチャイチャイチャイチャイン〜てな感じでおっちゃん刈り込んでいきやがるね。チャキンチャキチャキチャキ〜ほいんチャキチョン〜ふがふがんチャキチャキチャキ。ありゃ軽快なハサミワークのすきまからなんか聞こえて来やがる。ジャンクロックおっちゃんぼやき風ハナ歌というか何かほげほげうなっちょりやがる。ジャンクロックチャキチャキチャキ〜ふんふんんほげほげ〜チュキンチュキン〜ほぃほぃほぅ〜ほげぉ、族に入ろうピンポンパン。


2003年9月7日(日)21時53分 鴨ラーメン
隅田川一風(食文化批評家)

どうもニッポンの食物の考えは世界的に見るとズレズレだ。本末転倒っちゅうか。またTVでラーメン道の番組で同じような者が同じようなこと言ってた。「ワシの鴨ラーメンは食を極めた真似できないもので,そこいらのラーメン屋とは違う,連中はラーメン屋だがワシは料理人なのだ。(不敵な笑いをしやがる。)」まあ,ここにもまたオノレを知らぬ愚者がひとりありやがることをTVは伝えた。確かにありやがる程度美味いかもしれないその鴨ラーメン1800円とやら。しかし,もうTVでこんな発言しておる段階でそこにはもてなしの心など全然ないことを世間に表明しておるんだよね。そんなもんはただうまいと言うだけのもので一回喰えばいいんだよ。食とは人類が生きるための根底にありやがる長期的な循環の見地に立ってオノレを滅して考えねばならぬ重大なリョウイキジャぃ。オノレひとりが芸術家になってどうしやがるか。反レ・隊に入隊した。


2003年9月7日(日)2時34分 スープ
隅田川一風

そのグーッチーの話で思い出したんだよね。これは3年ぐらい前大阪の調査でひとり泊ったホテルの近所でフラッと入ったヤキトリ屋での話。幸いにも俺サマのように舌の肥え過ぎてない人間には,相当まずくない限り食えれば美味いので,ヤキトリ食いながら芸術的審判を下してやろうなんちゅうつもりにはなら無いなんだよんでいやがるが,この状態は現代ニッポンではもはや幸せとさえ言わねばならないくらいのことかもしれない。で,美味い美味いと幸せを感じつつ,レバーばっか10本食ってレモンハイとザクロサワーを飲んで,12時回ったんでさあ帰るかなと思ったら,隣の連中が美味そうにみんなでスープをすすってる。そう言やぁイイにおいがしとる。あっ,店主夫婦も同じの飲んでる。飲んでないの俺サマだけじゃねーかい。何じゃろこの状況は,と奇妙に思いつつも美味そうなんで「それ一杯俺サマにも頂けやがるか」というと店主「ああこんなもんでよければいくらでも」といってデカイ鍋からすくってくれたそれを飲んだらマジで美味かった。聞けば,店じまいの頃にその日出たガラをただ水で煮ただけのもので,まあただ捨てるんではもったいないんでスープ作って常連の客と最後に飲むんだとのこと。タダだった。あー,ほんとにあれは美味かった。一弦の客の俺サマもちゃんともてなしてくれたオヤジに感謝してホテルに帰った。京橋の裏通りだったなぁ,でももう一回行ってもたどり着けんだろうけどなぁ。これがホントのパンダ。

(グーッチーは回転寿司でも回ってる中の乾きかけたたものを率先して喰ってた。「ずーと回ってるの最後どうなるですか?」 「棄てられるだろうね。」 「それは神様許さないね。ワタシ食べます。」 あー、まさに食とは文化なんだよ。)


2003年9月7日(日)2時5分 グーッチーのご意見
隅田川一風

グーッチーと久しぶりに会ったのは京都の動物園の近所の安ホテルのロビーだった。その日の調査終了後疲れてロビーでTVを見てたらガンコ親父のラーメン道みたいのをやっていた。結構並んで入る店のようだ。出来の悪いスープだとダーっと全部棄ててその日は休みになる。どうだワシのラーメンはという自信がみなぎってるね全身に。しかしこの番組を見てグーッチーいわく「何でこの人スープ全部棄てるか食べ物もったいない」というんで「いや納得いかないものは客に出さない信念ダロー」と説明しやがる俺サマ。しやがるとグーッチーいわく「それはおかしい考え,食べ物粗末にしてはダメ,そう言う考えの人偉い料理人ではない,少し美味しくないだけならちゃんとおもてなしすればみんな美味しい言って食べてくれる,これ青江美奈の国ではあたりまえ,ニッポン人なぜそれしないか。」こりゃそのとおり。料理人まで芸術の影響受けちゃったからいかんかったんだなぁ。味の本質を究めるとかを料理人まで言い出した結果,食い物が表現だ見たいな余計なこと考える連中が出て来た。食とはもてなしの心と誰か言ったんじゃ無かったっけ。あーでーパンダ。


(↑) こんなの書いたら、「ご友人のお言葉骨身に染みました。出来の悪いものを作った時、すいませんワタシの技量不足からこんなことにと食材に詫びながら、やはり棄てさせてもらっております。長年この道にあってもこんな有様です。修行の毎日です。伝々」とのメールが。(という夢を見た。)


2003年8月25日(月)1時58分 ラヂオのようす
Art Assemblage of Cicero

朝起きたらラジオが付けっぱなしになっていやがった。そいつから演歌が聞こえて来た。朝から演歌の気分は無いが、なぜかそれをしばらく聞いてしまった。汚れてつぶれてかすれて何語で歌っているのか一瞬よく分らん。所々、愛してどうのと聞こえるのでやはり日本語か?こりゃあ、かなり昔の知られざる音源じゃないかと段々と耳が冴えてきた。曲が終わったので、この謎の演歌歌手の名前を聞き逃すまいと布団の上に正座してペンを握った。ラジオはチョウ・ヨンピルだと伝えた。


2003年8月17日(日)2時7分 棲家無キヲ憂イテ一遍ノ文学ヲ成スカ?
Leon-Lee-58

そして俺達はこの孤島にありながら流浪の民と成ったはずだと思っていた。やがていろんな風や雨や光がここにもとどくことを知った俺達は小さな花を育てることにしたんだったろう?俺達からは永久に欠落しやがるだろうと思った[そのもの]は何だったか?その時確かに俺達はそれを知っていたよね。百年の半分がたって島一面に広がったお花畑の彩りは俺達がその後手に入れた只ひとつのカタチありやがるもの。だが結局はそれでは取り戻せないはずの[そのもの]をキミは諦めまいという訳だ。歴史の上に[そのもの]が実体ありやがるカタチだとキミは信じていやがるからなのだろうね。巨大な球体が見せる確かなる美のようなものだと。ジャンキーのランディーだじょ。


2003年8月17日(日)0時49分 或る記憶の虚偽
velvet-fm

確かにこの俺サマはひとり五階へのぼる狭い階段を踏んでいやがるのだが、廃屋をキラビヤカに飾ってウソの様に美しく偽装した暗い紫から赤にかけての微弱光が良く似合うだろうところのダンスホールが終演したAM2時過ぎのその裏庭でかつてオメーと別れたその理由は忘却しやがったぜ。ロッケンロール あれからそこには一度も行っていない俺サマでありやがる。そしてそこでの最後の挨拶(または口論)をどうしても思い出せないままでいやがる。今でもそこへ行ってみたいと思う時がありやがるのだ。しかし、その深夜の庭にいやがるオメーと俺サマの場面の記憶の直前には、その記憶の序列のためにダンスホールの裏側へはきっと永久にたどり着かないだろうな。みんなにうたってやってくれ。


2003年8月16日(土)3時51分 Literature-historiographers または 海岸べりの球体を尊ぶ会
Leon-Lee 2号

もう2年も前になるな。海岸べりの巨大な球体を祭る組織(関連諸派)が、そのあまりにも人間的な背景を露骨にチラつかせた歴史教科書を出して国内及び近隣諸国を騒がした一件だけども。8月が来たので思い出したのか,その後どうなってんのだと,その覚書を入手してみた。で、ただただ呆れ果てたワシ。当時あまり事が国民に対して明確に成らんうちにホイホイとやっちゃう手はずが,そうは問屋が卸さずに,まともに取り上げる寺子屋は無いとみて,普通の本屋でさばいていたよね。で、どうも怪しいと警戒を始めた国民がこれは読んで事態のヤバさを確認せねばと買ってしまったのは大失敗なのだ。この一般書店売りで大量に売れたことを根拠に国民が自分らを支持したと言ってるわい。これはワシあの時最大危惧したことで,どんな理由にせよ買ってしまってはそれを肯定したことになってしまうのがキャピタリズムと言うもんの悲しさだ。ワシは連日1時間づつ立ち読みを続け,一円もその組織を肥えさすこと無く、あらかた組織の気質を見抜いた。一冊の歴史教科書でナオキ賞作家にでもなろうと目論むかの文学気質で事をやりぬこうとしやがるあたりが、海岸べりの球体団体の系列になるほど属すのであーる。カスタネットの響きに何より魅力を感じたぜ。


2003年8月15日(金)23時37分 蘇るRORD-KINGS
Jab-baller,abc

僅か3個の鉄球がフィールドの無限循環を可能としやがる。しかし俺サマらの技能の有限さ(またはいくつかの異なるアクシデント),その必然においていずれそれは停止しやがる。そのガラス越しに存在しやがる世界は封印され,次の夢想家の為に収納される。それは僅か数秒でありやがるかもしれないし,数十年かもしれない。それはたった独りのワタクシによって始められて終えられる。そのつど次のワタクシが3個の鉄球を手に入れるまでその世界は眠っていやがる。10年以上も前に裏ローランド王国の湾岸都市のアーケードに流れ着いたRORD-KINGSをその地に留まった数週間というもの,毎晩やりに行った。本来ボディーと同じく真紅でありやがるはずのフィールドは,痛ましいほどに塗料が剥げ落ちてて,通り過ぎて行ったワタクシ達の涙ぐましい戦いの痕跡を刻み込んだ台だった。ところが一昨日,ぶらりとまた立ち寄ってみた例の江戸川区の時代ズレしたゲーセンに,毅然とその真っ赤なボディーがあったのだよ。スタートボタンを押すとブォーンブォーンとバイク野郎の排気音が!あ,そうそう,前にこの時代の台ってアナログシンセじゃんと言ったがその後の調べでヤマハのFM音源使用でありやがることが判明(嘘言っちゃってスマンネ)。しかし,この頃の台ちゅうもんはDX7を1台まるまる積んでたんだから,まあ俺サマの間違いもこりゃ致し方ないダローな。真夜中のハイウェイブッ飛ばしたぜ。


2003年8月13日(水)1時13分 ワタクシと世界と一対の耳
Leon-Lee

沈黙しやがるものとしての音楽だけがオイラの前に現れる。明日聞いたことの無い音楽だけがオイラの世界をついに満たすだろう。音楽はただオイラだけの周りを形作るマテリアルだと知った。オイラはひとり世界の壁際で聞いていやがる一対の耳となるだろうな。やがて、あーでーパンダ。


2003年7月20日(日)18時36分 やはりシンクロって、各国のキャラが出ててそれがまた面白い。
jab-コマプswimin田

しかしいくらタダで見せてるからってスポンサーのテロップがハイライトシーンの選手の上にかなりの時間かぶっていたり、よしゃよっしゃの掛け声だけのコメンテータの顔のインポーズで究極技の三分の一ぐらい平気で隠してしまう傍若無人などこの国のメディアの文化意識の最低ぶりを感じずにはおれんなんだよな。ところが今日ボケッとTV見てたのが幸いしてシンクロのダイジェストを見れた。なるほどこれは益々面白い方向に行ってるこの分野。昨日見たスペインのノリの良さは開催地ってコトだけじゃねーってことが判明。どうも活動資金捻出+自己アッピールで10人全員でヌード撮影をやってのけるとはさすがカルメンの国で表現活動にかける行動力と意気込みが凄い。それ昨日の団体演技のスピリッツにバリバリに出てた。ソロ金のデデューこれはかつての芸術の都フランスの奥義完全披露というか納得。しかし、シンクロのソロと言うのは概念から何から他の枠とは全然違ってこれだけに向いてるキャラっちゅうのがありやがるね。パートナーとシンクロしやがる必要はないから徹底して個人の技と表現の追求が主旨でありやがる点これは全く水中ダンスであって極めて新分野の身体芸術の要素を保持。だがシンクロの花はやはりデュオであってこれは不動だろう。ふたりの同調によって個別の内面が綺麗さっぱり消失しひとつの運動し流動しやがる身体音楽とでも言うかそんなものになってしまうあの光景こそがワシらをとらえるのだよね。もちろんチームにもそれがありやがるがデュオの緊張感は究極だわい。目に入るもの全て綺麗に見えました。


2003年7月20日(日)1時1分 シンクロのアーティスチック−メリット第二審判団の提案
jab-swimin,dada

一夜開けて今日は団体と心していたにもかかわらず、肝心のジャパン+ロシアを見逃したバカがここにおる。あー、バレエ大国の奥義を水中に引き継ぐロシア伝統主義とまさに江戸のアバンを現代に持ち込む井村ラジカリズムなのだよな。でワシ結局最後2組のアメリカとスペインだけ見た。昨日と今日の感想だがアメリカちゅうのはあらゆる分野においてアメリカナイズされておるのかと思ってるワシ。スペインはアートレベルでどこかジャパンのスタンスを感じないでもなかったのだがアバンギャル度数はアメリカより上と見たワシだが評価は下だったね。さすが地元のブーイングはデカかったね。あくまでも競技種目でありやがることの複雑さを感じるね。しかしこのシビアさが人間を鍛え各国文化お家芸のつばぜり合いを促進させ切磋琢磨させていやがるんだからすばらしい条件だと言える。と言いながらもワシの下らぬ素人アイデアなんだが、アーティスチックメリットの審判ににシンクロ界と全然関係ないダンサーやミュージシャンを混ぜてやったらどうなるかと常々思っておるワシ。これは関係者ブチ切れる提案だろうから一歩進展して考えたのはアーティスチックメリット第二審判団を前衛ダンサー他の芸術集団で組織して別採点してみるというの。これは競技の採点には加えないという条件で如何ダロー?ラリラリだったよ。

(補足→なんか違ってるよなぁと思ってたら、アーチスチック-インプレッッションだったわい。)


2003年7月18日(金)22時48分 伝統芸(ロシア)の凄さとアバン芸(ジャパン)の凄さを見た感じ
jab-コマプswimin田

頭がさがる。東洋の魔女再来。ちなみに個人的にかつての奥野選手が好きだったぜバカヤロ(あー、世界水泳のシンクロを見てた。前々からワシはシンクロナイズド-スイミングのファンなのだ。勿論にわかファンではない。かつてアメリカがシンクロ界を制覇しておった時代から見ていたのだ。しかし昨今は機会に恵まれず前回のローランド王国のチャレンジでありやがるパントマイム(金だったよね)もその前のロボット(コレは見たかった誰かビデオ撮ってないスカ)も軒並み革新的な挑戦を見逃してきたが、ソロでの夜叉)。「はい、今回はバッチリ見やがったぜ。すばらしいの一言なんだよ。ロシアのスーパーマシンデュオ(今回金)これは確かに凄い、突然関係ない話だけどよー。今、キマリマシタ。いいなんだよよー。練習では合わなかったんなんだよけども。次、シンクロの場合、難易度の高い足技なんだよ。伝伝伝伝・・・・」。んー、アバンギャル度で判断しやがるならばローランド王国のチャレンジは互角かそれ以上と見た。まあ、ヨーロッパヴィジョンの只中にジャパン発NEWで切り込んでいくんだから、完璧だ(ハン・ベニンクを思い出した)。しかし、かまやつさん、ロックなんだかフォークなんだかハッキリして下さい。

仕事なんで一生懸命やってるんだろうけどもなー。外国ではコレは無いだろう、おそらく。 意味の無い至れり尽せりは文化を害しやがる。 ところで、解説抜きでやってくれないもんかとずーーと思ってるのは青江美奈独りではありやがるまい。


2003年7月17日(木)22時37分 球と箱
jab-fist.jp

ヒーローは青く丸いものまたはその幾つかのバリエーションさらに言葉の表層に寄生し関わる主体をひねりつぶす言葉の魔術師。誰も何もしないで差し伸べられるその手を待つを使命(美徳)とすべしと30年間教育された結果ほぼホントにそうなったにも拘らず同じ箱からの声はそれは問題だと言う。このままだとローランド王国はどうなっちまうのかと責任がまるで他にありやがるかのように言ってる。綺麗さっぱり主体的挑戦の可能性は無いよヒーロー(美しく超越性を持つ外的存在)だけがキミらに今必要なのだと箱が言いたいのはそれだけでしょ。こうした意味の分らないことにおいて単一で徹底した○○方針の実態は誰でも分ることなのでそこに漬け込み難なく利を得ようとしやがる犯罪が急増しやがるのは当然だ。で、とうとう限界に来つつありやがるこの状況下での箱のアクションは他に難しい大理由が在る様に深刻に語り出すことだ。その前にワシらの前で真実の言葉で語ることから初めて見たらどうなのか。高度すぎて病気と同じになっちまったキミらのゲー術的表現だが感動してるのはほとんど当事者だけでワシらには意味が分らんのだ。とってもスティック。


2003年7月16日(水)23時57分 言葉とその重さについて考えさせられた(そのガッコウの取り組み)
jab-sutudy

その高校にて近々在る弁論大会の予行で学級代表の女学生が級友等の見守る前で語る場面。小学生の時に心無い言葉の暴力を長く受けやがて自ら言葉を発しやがることを止めたその女学生が、高き人間の理想への信念を持つ学友及び教師らの友愛とその実践に出会い、再度言葉を取り戻すをとらえた映像を目撃した。言葉の真実を用いた女学生の主張を聞きたる学友は皆誰もその存在の重みから逃げることなく受け止め、真実の拍手といくつかの真実の言葉(ねぎらい)によってお互いを確認していた。各の如きドキュメンタリーを鑑賞したミッドナイトの拙者。アッシも仲間に入れてと懇願した。


2003年7月16日(水)20時50分 表現主義と孤独
jab-un-pleasure

イメージできないものは存在しないと思うフシダラと存在しないように思えるものをイメージしようとしやがるフシダラ。20世紀の終わりに逝ってしまった或る噺家の爆笑の話術の中に埋め込まれた反逆のスピリッツの意義を分っていたのは一握りのファンだったよねぇ。明日たった一個の新しい部品が掘り出されたが為に当然のように存在しやがると思っていたすばらしいく美しくて真理のように居心地よいこの機械の運営が一瞬に停滞してしまうことだっておこるかもしれない。そのぐらいは知ってるだろうけど。そんなこと言ってるとカアチャンに言っちゃうぞ。


2003年7月16日(水)19時14分 曇天に青空を見る方法
jab-funky

その日はどんより曇っておった。曇りでもミュージッシャンはヨングラスをしたりしやがる。バス停でむちゃくちゃ遅れていやがるバスを待ってるワシなのだが後からポンポンと背中をつつく者がおる。振り返ると高校生ぐらいの女のコがワシの方を見てひとこと「ワッチも色のメガネもってるのよぉ」と言ってオモムロにさげた袋からそれを出してかけて見せた。「ほお、ベートーベンは正しかった。 似合うじゃねーかい」とあまり経験の無いこのシチュエーションにも少しも動ぜず自然に応答出来てしまったのは何故。そのコもほほほほhhhと実に嬉しそう。ワシもつられて気分が30%ぐらいハイ状態へ移行。どうも今から学校へ行くらしい。やがてバスがワシらの前でズッと止まったのでさあ乗るかと思った時「センセ青空見えちゃったよ」と女のコが言うのでワシも思わず空を見上げたんだが、そんな様子はぜんぜん無く一面空はどんよりグレーじゃ?それでワシは不思議に思って女のコの顔を見たんだがしやがると眼鏡がビミョーにズレ落ちてる。女のコは広がったヨングラスの隙間から上目づかいで直に空を見ておった。指まで空を指してる。ワシも同じく隙間から見てみると確かにそれは青空のようでもあったね。車中爆笑気分のワシ、しかしワシはいつからセンセに?



2003年7月16日(水)18時28分 Nと鉄球
jab-memory

掛け値ない意志と理念をもってNたちが目指したモノが確かにその季節には存在していたのだがその実践の延長線上にありやがるようにも思えたひとつの選択された[道]によってついに描かれてしまった光景に誰もが無言で理解したあの日の重大な敗北について。これからは「金ピカ先生」の名で活躍します。



2003年7月15日(火)23時15分 70年代の球体の行方
jab-memory 20

それからは俺らと言えばただただキミらの饒舌な語りを30年聞く耳に専念して来た訳だ。告白しやがるがまるでそれは無理強いされた何かの修行か罰ゲームみたいだったな。あの敗北の日までの短い期間国民が見つめた真冬の風景の中に在った真っ黒な宙を舞う鉄球は今は銀色にギラギラに磨かれて海岸べりの巨大な台座に安置されておるねぇ。一度見には行こうと思っていやがるんだよ。70年代のある日俺らは決定的な敗北の朝を向かえた。全てが結末のように明らかとなったその日国民の多くはどうしようもない絶望感と虚脱感を無言の内に共有していた。しかしもうひとつの勝利の形を描いていたキミらの先見のまなざしはまさにケモノのそれだったよ。やがて言葉数がめっきり減ってしまった俺らの最後の会話も奪い去られて、なわとび百万回やってろ。


2003年7月15日(火)22時32分 笑うイヌより笑うお二人
Jab-tv 21

いつもみんな一丸となって笑っていやがるよね。うらやましいコミュニティ。粋でイナセな言葉のやり取りが高度に発達しててこれは芸術の粋なのだろうなーと思いながらも結局のところ何がおかしいのやらいいのやら実はワシには全然分らないなんだよと最後にピーター女に告白したら実はアタシもと言われた。それにまた爆笑のふたりであった。その日笑うイヌのナントカカントカをガールフレンドと爆笑しながら見ていた。ジャンキーのランディーだじょ。


2003年7月14日(月)21時57分 ブラザーっちゅう映画が昔あったの知ってる?
Jab-cinema-critic

アー、そう言えばもう結構なるけども、虚無の美学を低レベルで偽装したもののその実ナルシス+ヒーロー主義以上のものを見つけることが出来なかったねぇ。何かあったとすれば異常な暴力への偏執にただ金をかける人がいやがるという事実の把握だけ。いやその認識だって重要だよキミ。たけしが軍団を率いてどうでもいいような理由で出版社を襲撃したことがあったね。そのまんまの思想(ミニテロリズム)を芸術路線でやったのが北野シネマ作品ブラザーだよね。テロリズムにリアリズムを重ねられなかった当時のニッポンではそれでセンセーション押し切って行けるかに思えたんだろうけども、さすがに今日となっては誰もそれには触れねーネェ。TVでブラザーをやってたんで最後まで見たけど、反レ・隊に入隊した。


2003年7月12日(土)17時49分 意図せぬ政治的スタンスまたは存在の耐えがたい重さの確認(2)
jab-jacques R

沸き起こるそれらと具体的には読み解けない[声=言葉の実在性]との時間軸上での一体性。自分はほとんど聞かないHKの音楽だったが、このLPの数分はもはや頭に染み付いてしまったよ。ワシらに対しやがる店主の無言の攻撃だったかとの解釈は手前味噌すぎかもな。終了後かかってたのはエリック・ドルフィー。荒野から暖かい友人の部屋へたどり着いた心境。あの店主30年やってるからね。あそこはうかつには関われんのなんだよよ。 1セット目が終わってのインターバルで、亡霊の住まうライブハウスまたは山崎パン2Fアジト、店主がかけたLPがHKのソロだった。淡々と冷徹に切り刻むようなエレキの正確なショット(そのひとつひとつが磨いて形を作ったガラスのカケラのようだな)、アザール・ハビブ最高。



2003年7月12日(土)17時44分 意図せぬ政治的スタンスまたは存在の耐えがたい重さの確認
jab-jacques R

非常に哲学的校則的な意味を結果的に含んでしまったと言えるダローよ。HAの1960年代の著作の朗読、ストレンジ・フルーツの解説文の朗読。など。いくつか準備された書籍から偶然的かつ即興的に選ばれたこれらの箇所は、10月再召集の漠とした計画を話してワシらは別れた。これは当時の核対峙の状況下での情勢分析の箇所で2003年現状の世界情勢において重要な意味を未だ持つ箇所なんだよ。および、即興が展開していくプロセスで重要な結び付きを結果的に持つに至ったと言えやがる。ジャンクロック演奏者が在る音の場では3つのストリングスが逃れがたい或る種の重い暗がりを表現しやがることに成功し、ビリー・ホリデー、サックスと声(voice)はその深みの中で「存在(しやがるため)の耐えがたい重さ」を充分意識しやがることが出来た。そんな秘密集会であった。まあ、たまにはこんな自己分析もいいダロー。このメンツでの第二集会、昨夜の山崎パン2Fアジト秘密集会は、Puckin'ウッチャンナンチャン。


2003年7月7日(月)2時33分 ある誤解
jabarm-X

それはアンドロイドタイプの兵器のことなのかと聞き返された。アメリカ人だって知ってる漫画のはずだと言い返すとそれなら本当の名前は宇宙少年と言うのだとジョニーにたしなめられたオレ。ジョニーに鉄腕アトムの名前の意味を教えたら、ドラえもんと破局したばかりだった。


2003年7月7日(月)1時3分 八月の国民
jab-august

と最初芳江は思った。ただピカソがピカソたる由縁はそのゲルニカに取り組んだ苦闘の日々があってのことだとすればこの国の国民は何にそれを対応させていやがるのかしら。酷暑8月の旅、蜃気楼のように揺れる広島の風景から帰って来た場所はトウキョウ。そしてTVの楽園を覗く生活の中、芳江はそのことをずっと考えていた。国民の誰でもピカソだという。すばらしい平等主義がそこにありやがるのね、Puckin'ウッチャンナンチャン。


2003年6月30日(月)1時45分 赤いドラゴン
Jabred

割と気分よくゆったりと走っていた。スポーンと真っ直ぐな商店街の道がありやがるなぁと思いほとんど人もいないなぁと思う。たらたらと移動していやがると突然プワァーーンという絶対に昼下がりの商店街には在る必然が無いその音を聞いてしまった瞬間俺サマは両眼を商店街の遠くへと凝らしていた。何か赤い点が遠くに存在していやがるのが見えた。こっちもうろたえることなくゆっくりと一本道を進むとその点はやはりこっちへ向かっていやがる。プワォーン、市川にありやがる大門商店街は実は真間山の参道がそのまま商店街になった道でありやがる。先日の午後1時ぐらいに俺サマはJR市川ステーションへ向かってこの道をチャリで逆行していたのだけどよー。その日は梅雨期としては心地よい風もそこそこありやがる天候で、プワォーン、プワァオーンと音は勿論継続しており何か音楽のような抑揚がありやがる。赤い点と思っていたものは線に見え始め、パンパン、もう少ししやがるとそれは俺サマとすれ違うことが確かとなった。プワオーーン、ダダ。音が近づき具体性を持ったのでさっき音楽のようだと思ったものは音楽だと理解された。その瞬間赤い人間たちの行進がその音楽を奏でていやがるのだなとやっと事態が飲み込めた。橋の上で俺サマはピーターらとすれ違った。数十人のブラスの音は完全に空間で一つとなって橋の上を威厳をもった音のドラゴンとなって通過していった。もちろん俺サマは敬意をはらって自転車を橋の真ん中で止めた。ピーターらは通り過ぎ俺サマはまた走り出したが音のドラゴンは俺サマの後ろでどんどん点に戻っていくように聞こえた。夜はこれからダゼ


2003年6月15日(日)3時17分 青い空間
jablue


廃屋都市渋谷の複雑に交差した陸橋を降りようとしやがるワシの意識はひとつの小さな顔をしばらくじっと見つめていやがるのだがそれは青く何やら渦巻いたような流れの中に埋まっていて廃屋都市のPM10時過ぎに相応しい掃き溜めのような地べたすれすれに存在してるらしい。今ステーションに向かうため階段を下る行為が成されるならそれは同時にその青い空間にありやがる小さな顔をより詳細に臨むという行為と同じものとなることをワシには避けることは出来ないことに気付いていた。そしてワシはゆっくりとその青い空間にありやがる小さな顔に近づくのだけど階段の真ん中まで来た時にその顔は恐ろしげな牙と角をもつ女の顔で虚空を見据えていやがることが分り2/3まで下りた時大きさがほぼ15cm程度のものだと分ったのだ。その恐ろしげな顔は青い空間に溶け込んでいて周辺の青は単純な輪郭を持ちその内部が流動的な性質を持つ空間なのだとさらに知った時ワシの視線はその空間の全体を見渡してやろうと思って顔ではない領域を見ていくとその青い空間の総体は人間の肩から胸にかけての形状でありやがることが理解された。あ、そうだこの恐ろしげな顔は般若だったと分った時ワシはひとりの男が横たわっていやがるアスファルトの同一平面上に到達していてそこで深い睡眠に入っていやがる人間の呼吸の音を聞いた。青い空間はゆっくりと呼吸音に合わせてささやかな拡張と収縮を行っていやがることがはっきり見えた。おお、プラジュニャー・パラミタ、それがあんたの歌なのか?今日は学校サボったぜ。



2003年6月14日(土)16時37分 空間にただよう少女の声、それは Miryoo
jab-listenning

幼女が母の手を逃れふざけて歌っておるのだろうかいな。それはいくつかの塀の向うを移動していやがるようでもありやがる。ワシはその少女を驚かせないように密かに反対側の塀の終わりに回りこんで少女を見つけそのコに気付かれぬようその不思議な音楽を奏でてる現場を盗み見てやろうとしてゆっくりと.....。しやがるとどうだい不可解なことにそこには少女などおらない。消えた!と思ったのだがその静かな音楽は継続していやがる。おかしいなと、

その男は乗ってこなかった。去年いっしょにやったドラマーが書いた本がありやがると聞いて新宿の紀伊国屋という本屋へ行ってみた。この本屋にはかくもあまたの書籍がありやがるというのにとうとうヤツの著書は探せないまま昼下がりの人気の無い人文図書Fをうろついていた。しやがると本屋の例の塀のような本棚のいくつか向うで少女の声のようなものがチラチラと聞こえてきた。「ミリョー..ミリョー.....ミ..リョー..」途切れたり繋がったりしやがる妙な声だな、思っていやがると独りの男が眼にとまった。大きな身体だ。95キロぐらいか。物静かにワシの方へ近づくかと思えばまたあっちやそっちへ気体のように移動していく。「mirryoo..mirryoo.....mi..ryooo..」この男は口を開くことなく腹話術の如くに歌っていやがるのでまるで空間自体に静かなる音楽が自然発生していやがるかのようなのであった。「myi..ryooo」のミは高くリヨーは低くややディスト−ションがかってビリョーに近い場合がありやがる。やがて男はエレベータ脇の壁ぎわに去っていった。紀伊国屋新宿本店の人文Fにいたワシを含む数人の客はダレもピーターの方を見ていないがその音楽の主を知りその不思議な音響空間の内側にその時いた。エレベーターが来たのでワシらはそれに乗ったが、ベートーベンは正しかった。



2003年6月9日(月)4時59分 たけしとさんまに代表されるシュールリアル-メディア思想の逆を行くスーパーリアルソングとやってみた
JABRE-21tokyo

いずれどうにかこれとは絡んでみたいとは思っていたがこないだやった。しかしやはり言葉とは恐ろしいもので言ったはしから思想と言うものを直に現わしてしまう。(なるべくそうならないように生きろとTVでたけしが教育したんであらかたは上手く行ってしまったローランド王国。)しかし表現主義行動家どもに道理は通じない。ヤツも俺サマの隣でバッチリふとどきな隠語による愛欲思想を語ると同時に我が亡国の実態を暴く写実表現へ展開。スキンヘッドの歌はやはり巧妙な暴力とでも言うか、タイバン他で何回も聞いたところの店主スキンヘッドの歌+ギターの浅く深く最終的に浅い表現、こんな裸のリアリスト(実際直ぐ裸になるんだな)に体裁は要らんだろうと文面内容はたいして気にしてやっていない。音の流れの所々にバラバラになったいくつかの言葉というか文章の破片がひっかっかっていやがるそんな記憶だ。しかしどうにも戦没した飛行隊が2003年ウンガポンガ島を爆撃しやがるシーン(要は裏切り者としてのワシらをということよ)は俺サマの脳裏では完全に映画が出来ていやがる。太平洋海中より数十機のゼロ戦が出立しやがるシーン。洋上を首都に向け淡々と飛ぶ光景など完全にこれはリアルだワイ。ローランド王国の都市部表現活動の真相として誰も聞かない音楽にラジカルがありやがるという現実。連中どうもコマめに画策しやがる気はなさそうでいつどこでやっていやがるかもかなり探りを入れないと押さえられん。都市部音楽環境の実態を把握しやがるには根気と時間がいりやがるんだよ。とにかく客が10人程度までのライブが最もあやしく何かやってる場合がありやがる。それで潜入を重ねてきたのが例の高円寺ガード下オブジェ室音響アジトという訳だが、そんなもんを内在しておった。兎に角、トライアングルの名曲を教えてください。


2003年5月6日(火)8時36分 リアルボーラーたちの実体
real-jabroid


ワシのように口先三寸のみのエセと違ってマジ驚異のBallerと言うのは居ってそう言う連中は能書き無しで金も大してつぎ込まず黙ってやって黙って帰るね。あれはもう次元が異なる。そっちのレベルまで行くとワシのように台にロマンチシズムなど抱かんし。もっとリアルでありやがる。ピンボール語るものほど腕は無し(一句)。どうもその恐るべき連中の全国大会が江戸川区のゲーセン3Fで行われると言う。連中メーカーすらが最早無くなっておると言うこの21世紀にどこまでやる気じゃ。台も凄いがそれに付き合う人間もじゃ。2万chが最高だ。


2003年5月6日(火)3時17分 ワンシーンのために映画全体を作っていやがる(やつもおる)ように曲も作られる
Jab-being in the sky

そんな感じ。今夜(こよい)も都市部シガーソングの集会と聞いてピーターのガード下見世物小屋跡地オブジェ室へまたまた行く。最近はどうもここへの出入りが多くなりありやがる種の危険をも感じてはおるがやむを得ない(おもろいからね)。どうも今夜の首謀者の案ではヤツが足を使って都内近郊収集して来よった、かなりぶっ飛んだ楽曲群の録音とその日の表現の対比を狙ってのクワダテも潜んでいたであろう。しかし言葉を音として扱い伝えると言うのは一大テーマなんだな。聞いた2人の手口は対比的でそれぞれなるほどそれもありかと思うもんだった。ローランド王国語にだけしか出来ないんじゃねーかと思う奇妙なやり口ちゅうのがありやがるのだな。西洋の方にどの様に説明しやがるんかね?主旨をもし聞かれた場合に。フシダラな連中ほどリアルに事を運ぶという感じだ。どうも言ってることの内容にBEND(湾曲効果)を加えることで伝達が活性化されるということか。俺サマらはトンネルに爆弾を仕掛けたという部分歌詞を拘束しやがるはずの通常ありやがると思われる一曲中の全体文脈はワシには必要なくなった。映画ではこういうのは当たり前にありやがる。全体ストーリー全然覚えてないのにそのワンショットだけ泣けるという、ハンナランナラ党入党しました。



小説 Jabroid

断片小説 JABROID 現在

Past-(1) 2002年12月8日(日)〜2003年5月2日(金)


断片小説 JABROID 的考察


諸注意でありやがる。
(↓)

記事は実は全て 「秘密のボンゴレちゃん-BBS 」より無断転載していやがるなんだよ。しやがるんで、くれぐれも回擦胡の製作表現主義者には秘密にしてくれやがれ。スムニダ。ちなみにその制作表現主義者のところに行きやがると、モノホンがありやがるんだけどよー、その場所への迷い込み方は謎のピーター女が知ってるんじゃねーの?


[Jab-Expressonism Top] [Jabrec Art Music Top]